浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信偈」を、なるべく分かりやすく読み進めていきます。仏教を学びながら、自らについて振り返ったり、見つめる機会としてご活用いただけますと幸いです。

「正信偈を学ぶ」シリーズ、20回目の今回は、炎王光(最高の輝きをもつ光)について見ていきます。阿弥陀仏という仏様は、我々の悩み苦しみを丸ごと受けとめていくような仏様であることが、炎王光では表現されています。

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◆十二光

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さて数回にわたって、十二光について見ています。十二光とは、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏のもつ光のお徳を十二種に分けて讃えたものです。

十二種にも分けて光のお徳を讃えられているのは、阿弥陀仏とは、様々なお徳をもった仏様であるということを、色々な角度から言葉を尽くして表現をしようとしたものです。ですので、十二光とはどういうものかを見ていくと、阿弥陀仏とはどういったお徳をもった仏様であるのかが分かってきます。

前回まで、無量光から4番目の無対光までを見てきました。今回は、5番目の炎王光(最高の輝きをもつ光)について、見ていきたいと思います。

◆正信偈の偈文(げもん)

では、今回見ていく「正信偈」の本文と書き下し文、そして意訳を見てみましょう。

【本文】
普放無量無辺光 無礙無対光炎王
(ふほうむりょうむへんこう むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
(しょうじょうかんぎちえこう ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
(ちょうにちがっこうしょうじんせつ いっさいぐんじょうむこうしょう)

次に書き下し文です。

【書き下し文】
あまねく無量・無辺光、無礙(むげ)・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照を蒙(かぶ)る。

次に意訳です。

【意訳】
阿弥陀仏の放つ光のお徳について、お釈迦様は十二種に分けてほめ讃えておられます。
無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光のことです。
阿弥陀仏の放つ光は、全ての世界を照らし、あらゆるものはその光をうけています。

◆炎王光

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さて炎王光とは、「正信偈」では光炎王となっていますがどちらも同じことで、最高の輝きをもつ光のことです。どのような光と比べたとしても比較にならないほどすぐれ、まるで炎の中の王であるような最高の輝きをもつ光という意味です。

親鸞聖人は、和讃といううたに、炎王光のお徳をこのようにたたえておられます。

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仏光照曜(しょうよう)最第一
光炎王仏となづけたり
三途の黒闇(こくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命せよ
(『浄土和讃』讃阿弥陀仏偈和讃)

正信偈・和讃をおとなえになったことがある方は、聞き覚えのある和讃かと思います。この和讃を意訳すると、このような意味になります。

阿弥陀仏の光明の輝きがすぐれていることは、他の光が及ぶところではありません。そのため、阿弥陀仏を光炎王仏(光や炎の中の王)と申します。
地獄、餓鬼、畜生という三悪道(さんまくどう)の暗闇の中に趣くものでも、阿弥陀仏の光明に照らされたならば救われていきます。
他人の供養を受けるにふさわしいお徳をもった阿弥陀仏に、帰依致しましょう。

この和讃のように炎王光とは、どのような光と比べたとしても比較にならないほどすぐれ、まるで光や炎の中の王であるような最高の輝きをもつ光ということです。

◆太陽を超える光と炎

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炎というと、我々が思い浮かべるのは、太陽の炎でしょう。太陽は、地球とこれだけの距離が離れていても、地球に熱をもたらしています。太陽がなければ、現在のような地球の環境はなく、我々もこうして生まれることはありませんでした。

また、日本には四季があるように、夏と冬とでは気温が随分違います。その気温の違いは、夏と冬とでは太陽の光のあたる角度が違うからだそうですね。

また、地球の中でも、地域によって気候が全然違います。温暖な地域もあれば、北極や南極のように、寒い地域もあります。それも太陽との距離や角度が影響しているそうです。

太陽と地球は、これだけ距離が離れているにも関わらず、太陽の光が当たる角度が少し違えば、人間の生活様式が全然変わってしまうほど、また生命に影響を及ぼすほど、太陽は我々の生活や地球環境に影響をしています。

また、太陽の温度は、表面温度が約6,000℃、太陽を取り囲むコロナは100万℃以上の高温だと言われます。太陽の表面温度より、太陽の周囲のほうが高温なのは意外ですが、とにかく太陽は人間が全く近づけない程の温度です。もし仮に近づいたら、一瞬で蒸発してしまうでしょう。

そして、紅炎ともプロミネンスともいう太陽の炎は、高さ10万Km以上にもなると言われ、直径1万2千Kmほどの地球であれば、炎で完全に丸のみされてしまうほどです。

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このように、太陽の炎とはそれほど、すさまじいものであり、また太陽がなければ我々が存在していないほど、我々の生活や地球環境にも影響を及ぼしているものです。

しかし、阿弥陀仏の光明とは、炎王光といわれ、そんな太陽をも超える光や炎であると表現されています。炎王光とは、阿弥陀仏のもつお徳を表現したものですが、炎王光という言葉で、いったいどういうことを言おうとされているのでしょうか。もう少し詳しく見てみましょう。

◆三途の黒闇をひらく

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阿弥陀仏のもつ光のお徳を、炎王光と表現されているのは、太陽をも超える光や炎で、我々が抱える煩悩や罪悪を焼き尽くし、消滅させるということを表現されているかと思います。

そして、先程紹介した炎王光のお徳を表す和讃には、「三途の黒闇ひらくなり」とありました。

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三途とは、地獄、餓鬼、畜生という三悪道(さんまくどう)、三悪趣(さんまくしゅ)と言われるもので、苦しみの状態、苦しみの境涯のことです。

地獄、餓鬼、畜生の三つの悪の道、三つの悪の趣く境涯ということで、三悪道(三悪趣)とか三途と言われます。三途の川という言葉も、三悪道が由来になっているとも言われます。

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さて、和讃にあった「三途の黒闇ひらくなり」とは、地獄、餓鬼、畜生という三悪道の苦しみに堕ちていくものでも、阿弥陀仏の光明に照らされたならば救われていくことが表現されています。

つまり、阿弥陀仏という仏様は、我々の抱える煩悩や罪悪をも引き受けて、必ず救ってくださることが、炎王光という言葉で表現されているかと思います。

煩悩や罪悪、地獄、餓鬼、畜生といった難しい仏教用語が出てきましたので補足しますね。

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煩悩とは、欲や貪りの心とか、怒りの心など、我々の悩み苦しみの原因となっているものです。そしてその煩悩が原因となって、罪や悪しき行為をおこない、悩み苦しみから抜け出せない状態になってしまいます。

炎王光とは、そうした悩み苦しみの原因である煩悩や、煩悩から起こる罪悪を、光や炎で焼き尽くすことが表現されています。そしてそれは、阿弥陀仏という仏様は、我々の抱える煩悩や罪悪をも引き受けて、必ず救ってくださることを表しています。

炎王光という表現から、そうした阿弥陀仏の救いのお徳を表しているということが一つあります。

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そして、煩悩を原因とした罪悪によって、地獄や餓鬼、畜生といった、苦しみの状態になっていく、苦しみの境界に趣いていくという考え方があります。

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地獄とは、その言葉は聞いたことがあるかと思いますが、苦しみがきわまった状態、境界のことで、我々がおこなった罪や悪の行為の結果として、地獄の状態になっていく、地獄に趣いていくと考えます。

親鸞聖人が非常に尊敬された、七高僧という七人のお坊さんがおられますが、その中の6人目の源信和尚(げんしんかしょう)という方がおられます。源信和尚は日本人ですが、『往生要集』という書物を記され、そこには地獄の様子が細かく記されています。

例えば等活(とうかつ)地獄という境界は、鉄の刀や鉄の棒などで身体を斬られたり砕かれたりして、その後また蘇ってそれがずっと繰り返される地獄だと言われます。死に至るような拷問が永遠と繰り返されるような状態で、考えただけでそんなことにはなりたくはないですね。

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続いて餓鬼とは、常に飢えに悩まされる状態、境界のことで、貪欲(とんよく)という貪りの心の結果として、餓鬼の状態になっていく、餓鬼に趣いていくと考えます。

お盆の行事のもとになっていると言われる『仏説盂蘭盆経』には、お釈迦様のお弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)が、自らの母が飢えに苦しむ餓鬼の世界に堕ちていることをご覧になり、母を飢えから救おうと供養したという物語が説かれています。

そこに説かれる餓鬼の状態とは、喉の渇きや飢えに苦しんでいて、水や食べ物を口に入れようとするけれども、口に入る直前で燃えてしまって口にいれることができない、ずっと渇きや飢えから解放されることがない、そういう状態と記載されています。

そんな渇きや飢えに苦しむのも、できれば避けたいですね。

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そして畜生とは、人にたくわえ養われて生きている状態、境涯のことで、たとえば鳥や獣や虫、魚といった生存状態を言います。

こうした生存状態は、弱肉強食の世界で、いつ食べられるかもしれない恐怖や、家畜として重労働をしなければならないような苦しみがあります。もし人間が、他の生物に食べられたり、家畜にされている状態だったら、つらいでしょうね。

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こうした地獄や餓鬼、畜生といった三悪道(三悪趣)とは、非常に苦しい状態、境界と言えます。

その三悪道(三悪趣)には、我々の罪や悪といった罪悪の結果として趣くと言います。そして、その罪悪の原因は煩悩であると言われます。

そうした我々が抱える煩悩や罪悪を焼き尽くし、「三途の黒闇ひらくなり」と表現されるように、三悪道(三悪趣)という苦しみ、暗闇の状態、境界をひらいていく。阿弥陀仏の救いとはそういうものですよということを、炎王光という言葉で表現されています。

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この世で生きている限りは、欲や貪りの心、怒りの心といった煩悩を、中々おさえられない我々であります。しかし、阿弥陀仏という仏様は、そんな煩悩や罪業を抱えた我々を救っていこうとする仏様である。そのことが、炎王光という言葉で表現されています。

いかがだったでしょうか。十二光では、阿弥陀仏とは様々なお徳をもった仏様であるということを、色々な角度から見ています。今回は、炎王光(最高の輝きをもつ光)という表現から、阿弥陀仏のお徳を見ていきました。

炎王光とは、太陽をも超えるような光や炎であり、我々の悩み苦しみの原因となる煩悩や、そこから起こる罪悪を焼き尽くし、悩み苦しみの暗闇をひらき、光で照らしていくようなものであることが表現されていました。

そしてそれは、阿弥陀仏という仏様は、我々の悩み苦しみを丸ごと受けとめ、救っていくような仏様であることが表されていました。

次回も、十二光の続きを見ていきたいと思います。

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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【正信偈を学ぶ】
▼前回の内容

【正信偈を学ぶ】第19回_無対光。人と比較せず自分らしく生きる | 信行寺 福岡県糟屋郡にある浄土真宗本願寺派のお寺 (shingyoji.jp)

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