こんにちは、僧侶の神崎修生です。本日は、新型コロナウイルスについて、感じたことを書いてみたいと思います。

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目次

  1. 生と死が生々しく感じられる時
  2. お寺として、僧侶として できることは何だろうか
  3. 人生の本質
  4. 具体的な対応

生と死が生々しく感じられる時

医療の発達によって様々な病気が快方し、医療や介護の整備によって長寿化した現代は、ともすれば、死が遠くに感じられる時代でもありました。

しかし、今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)や、我々日本人にとっては、2011年の東日本大震災などを通して、人類は、疫病や震災を繰り返してきたのだという現実を、目の当たりにされます。

そして、「ああ、人はやはり亡くなっていくのだ」。生と死とが生々しく感じられ、その現実を生きていることを、否応なしに呼び覚まされる感じがします。


今回の感染症について、中国で起きた当初など、お恥ずかしながら、私は初動はあまりどういう事態がおきているのか、理解と実感が追いついていませんでした。

しかし、ヨーロッパでの医療崩壊や、世界的に感染が拡大している様子、世界規模での経済的な影響、日本においても、特定の業種に従事する方の収入減や失業、働き方の変化、日常生活における外出や参会等の自粛などの現実を目の当たりにすることを通して、個人的な感じ方としては、徐々に東日本大震災の時のような感覚になっています。

お寺として、僧侶として できることは何だろうか

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お寺として、僧侶として、人としてできることは何だろうかと、このような機会があると、一段と考えさせられます。そして、できることは、「なるだけ平静、冷静でいること」、そして、「求められること、本質的なことを粛々とやり続けること」だと思っています。


仏教が目指す姿勢として、自他の抜苦与楽という考え方があります。恐れや怒り、悩み、迷い、悲しみなどの苦しみが和らぎ、より良く生きていこうと、自らと他者が共に目指していく姿勢です。

自他の抜苦与楽こそが、お寺や僧侶がおこなっていく本質的なことであると、私は感じています。非常時であれ、平時であれ、ただこれを愚直に、粛々とやり続ける。そのことが重要ではないかと思うのです。


世の中が非常時でなくても、自分や家族が病気にでもなれば、自分にとっては非常時です。そう、いつでも非常時は起こりうるのです。穏やかな一日は、穏やかでない時にありがたみを感じます。

非常時とは、日常ではないと書きますが、人類の歴史を見ると、老い、病になり、亡くなっていくことは、非常時ではないのでしょう。

諸行無常(全てのものは移り変わっていく)、そして、一切皆苦(あらゆるものは思い通りにならない)そうした人生を何を目指し歩んでいくのか、それが仏教の根本の問いであり、先人から教えられている智慧なのだと、まざまざと教えられます。


私はご縁に恵まれて、日頃から多くの方に育てていただいています。ご葬儀等では、僧侶として、多くの方をお見送りする立場にあり、故人やご遺族から、生きるとは何か、人生とは何かということを、身をもって教えられ、育てていただいていると感じます。

亡くなっていく人生を生きているという事実を前提にした生き方、死生観は、僧侶でなかったならば、(あくまで私の場合はですが)醸成されていなかっただろうと思います。たまたま僧侶となるご縁に遇い、仏法(仏教)と、色々な方に育てられながら、醸成されてきました。


だからこそ、不安や怖れを感じるような状況の中で、できるだけ平静、冷静でいることが、自分の与えていただいた役目のようにも感じられます。平静でいられる状況にあるだけのことかもしれませんが、できるだけ平静さと冷静さを保って、求められること、本質的なことを粛々とやり続けていきたいと思います。

人生の本質

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疫病や震災、戦争などを通して、人類の意識や価値観はこれまでも変容してきたのでしょう。何度も何度も、危機的な状況や過ちを繰り返しながら、人はここまで来たのでしょう。


自分は、何のためにいのちをいただき、何のために生かされているのだろうか。

主体的な理由は見出しにくいにしろ、事実としては、多くの方に願われ、支えられて生かされてきたということです。


一人一人のいのちが、輝く尊いいのちであり、幸せに生きてほしいと願われていること。それにも関わらず、互いに自己主張をして、傷付け合っていること。しかし、自分が良ければ良いという生き方では、幸せにはなれないということ。だからこそ、互いに尊重し合い、手を取り合い、生きていくことが大切であること。


このような本質的なことを、先人から我々は教えられています。ただ、若い時や、ある程度自分のことは自分でできる時には、これらの考え方が特にありがたいとも、自分ごとだとも思いにくいものです。そして、たとえこれらの考え方が良いと分かっていても、中々実現ができません。理念や価値観としてはいいが、現実は別問題。そう片付け、折り合いをつけて生きています。


ただ、こうした疫病や震災、戦争、または、自身や家族の老いや病、死別などを経験することを通して、人生とは何かという問いに直面することがあります。

我々は結局、何のためにいのちをいただき、何のために生かされているのでしょうか。


非常時であれ平時であれ、こうした人生の本質的なことについて問い続け、共に考え、歩んでいくのが、お寺や僧侶の役割かと私は思います。

そして、恐れや怒り、悩み、迷い、悲しみなどの苦しみが和らぎ、より良く生きていこうと、自らと他者が共に目指していく姿勢がとても大切だと思われるのです。

具体的な対応

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今回の新型コロナウイルス感染症の事態が、早く沈静化してほしいと願っていますし、多くの方が身命を賭して、改善に努力されている姿に頭が下がります。

専門家の見解を伺っていると、影響は長期にわたるという予想も出ていますね。長期にわたる自粛は、経済的にも精神的にも厳しくなってくることでしょう。経済的に追い込まれれば、精神的にも追い込まれていきます。

とはいえ、無策での自粛解除は事態を悪化するだけですから、感染による重傷者、死者をできるだけ減らす対策を取りつつ、ウイルスがありながらの消費活動や生活をおこなう工夫していく段階、With コロナの生活段階に、もう少しすると入ってくるでしょうね。


With コロナの中で、お寺や僧侶ができる「自他の抜苦与楽」の具体策は何だろうかと、このところ考え続けています。

多くの方も真っ先に思い浮かび、取り組まれているのが、インターネットの活用だと思います。

私も今、お寺の機能をインターネット上にも作り、オンライン寺院化を急ピッチで進めています。

少しでも苦しみが和らぎ、より良く生きていこうと思えるような場とつながりの仕組みを、オンライン上に整えていきます。

具体的には、ブログであり、SNSであり、オンラインサロンや動画配信などです。色々なお寺の方が、今取り組まれています。今後、オンライン会議システムを用いた法事や行事の開催も増えてくることでしょう。

リアルからオンラインに変わっても、これまで通り、癒やしや温もり、喜びなどが感じられる場をつくっていきます。いや、オンラインは、さらに日常的に仏法(仏教)に触れられ、交流のできる場でもあります。

このような時だからこそ、癒やしや温もりが感じられる場が必要とされることと思います。自他の抜苦与楽の領域は、お寺や僧侶の本分ともいえるものでしょう。

私も、平静、冷静に、やるべきと思うことに粛々と取り組んでいこうと思います。大変な時ですが、周りの方々と支え合いつつ、生きていきましょう!

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

合掌


浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

 

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