これまで、死に対して、我々が取ろうとする態度について、

①「死を考えないこと」

②「少しでも健康でいようと気をつけること」

③「今を大切に生きること」

④「死を受容し、超克すること」

という大きく4つの態度があるのではないかとお話し、「死を考えないこと」、「今を大切に生きること」について考えてきました。

▼「死を考えないこと」はこちら

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▼「今を大切に生きること」はこちら

https://online-temple.net/?p=268

今回は④「死を受容し、超克する」ということについて、考えてみようと思います。

目次

  1. 「死を受容し、超克する」とは
  2. 「死の受容のプロセス」
  3. 生死出づべき道
  4. 仏の光に包まれる

 

「死を受容し、超克する」とは

「死を受容し、超克する」とはどういうことかと言うと、受容とは死を受け容れること、超克するとは死の苦しみを超えることです。死が眼前の事実であると実感し、受け容れ、のり超えている状態のことです。

上記の4つの中では一番、死が自分事として感じられている、間近に感じられる状態であるといえます。もし、いのち終えていくような重い病気であることを宣告された時、我々はどのように感じるでしょうか。

「嘘だろう」、「間違えじゃないか」、「なぜ自分が」、「死にたくない」、「まだ治療法があるんじゃないか」

年齢やタイミング、性質など、人によって感じ方は様々でしょうが、色々な感情がわいてくるのではないでしょうか。いきなり、「死を受容し、超克する」という状態には、中々なれないはずです。

 

「死の受容のプロセス」

死を受容するまでに、人はどのような感情になるかについては、精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスが著書において示した、5段階の「死の受容のプロセス」が広く知られています。

1.否認
「嘘だろう」、「間違えじゃないか」といった、死を否認するような段階。

2.怒り
「なぜ自分が病気になるのか」、「自分が病気になったのはあいつのせいだ」、「なぜあいつじゃないんだ」といった、現実に怒りを感じ、場合によっては怒りの矛先が他人に向かうような段階。

3.取り引き
「絶対に死にたくない」、「まだ治る方法があるんじゃないか」、「神様仏様、どうか助けてください」といった、未だ死を受け入れられずに、生きることを望み、何かにすがる気持ちがおこってくるような段階。

4.抑うつ
「やはり自分は死ぬのだ」、「助かりようがない」、「もうだめだ」といった、避けられない死の現実に心が沈み、無力を感じる段階。

5.受容
「残された時間を精一杯生きよう」、「我が子にこのことは伝えておこう」、「今までありがとう」といった、死を受け容れ、感謝の思いや、残りの時間を大切に生きていこうとする段階。


死の現実が間近に感じた時に、人が感じる共通の感情としてこの5段階があると示されています。勿論、人によって感じ方は様々ですので、この順番が違ったり、何かの段階の感情を感じなかったりすることはありますが、おおよそこのような感情を抱くということは言えるかと思います。

死に対して我々が取る態度のうち、今回の「死を受容し、超克する」という状態は、いきなりその状態に至るということでなく、上記のような否認、怒り、取り引き、抑うつなどの様々な感情、葛藤などを含意し、時間の経過、感情の揺らぎを経て、最終的に、受容し、超克していくという意味で記しています。

 

生死出づべき道

さて、浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人という方がおられました。聖人は、西暦1100年代、1200年代の鎌倉時代を生き、90歳の生涯をかけ、仏道を歩まれた方でした。その親鸞聖人の歩まれた仏道とは、「生死出づべき道」であったと言われます。

「生死出づべき道」とは、生死の迷いから抜け出る道のことであり、それは、生にとらわれ、死を恐れるような生き方から抜け出ることだとも言えます。親鸞聖人の生前の言葉が記されているとされる『歎異抄』には、このような言葉があります。

「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐいるべきなり」

(いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽き、力なくいのち終えていく時に、浄土という仏様の国にまいるのです)

『歎異抄』

 

我々は、この世を生きているわけですから、その中で家族をはじめとした人間関係や、築いてきたもの、大切にしてきたものがあるわけです。死を間近に感じると、「死の受容のプロセス」にあるような様々な感情、葛藤を抱くのも不思議ではありません。

「そんな馬鹿な」、「もっと生きたい」、「子どもの将来が心配だ」、「孫をもっと抱きしめてあげたい」、「この身体と別れていきたくない」など、名残惜しさが募るのも、ある意味当然といえます。

70代の男性で、末期癌の宣告を受けた方がおられました。「悔しい。もっと生きたかった」と絞り出すようにおっしゃいました。日頃、死に対して我々は、考えないようにしたり、なるだけ健康でいようと気をつけたり、後悔しないように精一杯今を生きようとして、ある意味では死への対応をしています。

しかし、死が訪れるのはいつも突然です。このあたりで もういいかと思えるまで生きることができたらいいですが、そんなに自分の思い通りにはいきません。死が眼前に姿を現すと、否認や怒り、抑うつなどの感情に襲われるわけです。

病気や高齢の場合は、段々と弱っていき、『歎異抄』の言葉のように、まさに力なく終わっていくこともあるでしょう。80代90代の方のご葬儀をお勤めする機会がありますが、よくここまでと思うほど、精一杯生き抜かれたことが、お顔を通して、お体を通して感じられます。

目や頬は落ち込み、かつてのふっくらとした感じはありません。しかし、その姿はとても尊いものです。「よく頑張ったね」、「ありがとね」。そう送りだすご遺族の言葉には、感謝と尊敬の念が込められていると感じます。

人の亡くなり方は一様ではありませんが、いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽きた時に、力なくいのち終えていくのです。

いのち終えていく時に、我々はどうなるのでしょうか。どこか往く世界があるのではないかとか、死んだ先は真っ暗闇だとか、人によって見解が異なります。しかし、亡くなってみないと、本当のところは分からないことでもあります。

ただ、どこか往く世界があるのではないか、先だっていかれた方がおられる世界があるのではないかといった見解は古今東西あり、そう思えることが悲嘆や恐怖を和らげ、救いにもなることがあるように思います。

前述の末期癌の宣告を受けた70代の男性は、「悔しい。もっと生きたかった」という思いと共に、「でも、大好きだったおじいちゃんやおばあちゃんに、また会えると思うと心が少し安らぎます」ともおっしゃいました。また、80代の僧侶の方が、「またお浄土で会いましょう」と言われ亡くなっていかれました。

いかに名残惜しく思おうとも、この世での縁が尽き、力なくいのち終えていく時に、浄土という仏様の国にまいるのです。

こうした言葉は、自分が病気になった時、大切な方が亡くなった時、死の現実が眼前に現れた時に、初めてリアリティをもって感じられることがあります。他人事だと、あの世など信じられないとも思うようなことが、死を眼前とした時には、自分のこととなるのです。

呼び方は浄土でなくても、天国でも神の国でも、あの世でも向こう岸でも、どこかに往き生まれてゆく世界があるんじゃないかという思想は、古今東西を問わず、存在しています。

死やあの世というものが、自分ごととしてリアリティをもって感じられる中に、「死を受容し、超克する」ということがあるのではないかと実感として思います。

この世を当たり前のように生きている間は、確かに生にとらわれ生きています。突然の死の事実が眼前に現れ、悔しさや憤り、名残惜しさをも感じます。しかし、どこかへ往く世界があるのではないか、大切な人が先に往き待っていてくれるのではないか、そうした温かな心に包まれる時、「死を受容し、死を超克する」ことにもなると思うのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

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