はじめに

こんにちは、僧侶の神崎修生です。

5年前、私は、副住職を勤める信行寺にて、真宗講座という学びの場の講師を担当する機会をいただきました。

題材は何がいいだろうかと考えていた時に、本願寺派の勧学(学階の最高位)である梯實圓和上が、「『歎異抄』(たんにしょう)は難しく、誤った解釈をされやすい書物ではあるけれども、学識の高い現代においては、かえってその常識が覆されるような書物が『歎異抄』であるから、学びの題材としてはいいのではないか」という趣旨のことをおっしゃられている言葉をお聞きしました。

かねてから、『歎異抄』の素晴らしさに感じ入っていた私は、真宗講座にて、是非とも『歎異抄』を取り扱いたいと思い、題材とさせていただくことにしました。

ただし、この『歎異抄』は、表面的に読んでしまうと、誤った解釈や誤解を生んでしまう可能性が大いにある書物だと言われており、若輩である私が、「この『歎異抄』の心を、しっかりとお伝えできるだろうか」、そしてまた、「私よりも人生経験の豊かな方々を前に、お話することがあるだろうか」という個人的な課題も抱えつつ、真宗講座はスタートしました。

そこから約5年間、真宗講座にご参加くださる皆様とともに、『歎異抄』を拝読してきました。

最初は、「難しい」、「理解しがたい」という声もありましたが、段々と読み進めていくうちに、「とても味わい深く、今までの生き方を考えさせられますね」という声や、「自分の生き方が恥ずかしくなりました。しかし、このような教えに出あえて、嬉しく、ありがたく思います」という声が多くなっていきました。

それほど、この『歎異抄』という書物の内容はすごく、自分の価値観や常識、生き方をも揺さぶられ、まさしく人生を考えさせられるような書物です。

先達の研究書を読み耽りながら、また、日ごろから接しているご年配の方々の人生経験から教えていただきながら、何とか5年間、今日まで講座を続けることができています。

さて、この歎異抄講座では、真宗講座の際に作成したテキストをもとに、講座での学びをさらに加味し、できるだけ分かりやすい言葉と、事例を用いて、丁寧に『歎異抄』の心を読みほどいていきます。

『歎異抄』を読み進めていく暁には、読者それぞれに、人生の意味を深く味わわれ、生きる喜びや感謝の心が深まっていく、そのような一助となればと、浅学菲才ながら、これより記させていただきたいと思います。どうぞ、宜しくお願い致します。

最後に、『歎異抄』とはいかなる書物であるか、先述の梯和上のお言葉をご紹介させていただき、今回は閉じさせていただこうと思います。次回以降も、お読みいただけることを喜びに、記してまいります。

 

『歎異抄』とは

近代になって、この書(『歎異抄』)が第一級の宗教書であると評価し、みずからの救いの道をそこに聞きひらいていったのは、明治のころにでた真宗大谷派の学僧、清沢満之でした。
それから百年、さまざまな人がこの書を愛読してきました。作家の倉田百三、評論家の亀井勝一郎、哲学者の三木清など、大正から昭和にかけて活躍した有名、無名の多くの人々がこの書によって人生の難関をこえていきました。

あの激しい、戦争の時代に、青春の夢も希望も絶たれて戦陣に向かった多くの青年たちが、背嚢のなかに秘めていた心の書は『歎異抄』でした。そしていまも生と死の巌頭に立って心のよるべを失った人びとが、この書に光を求めています。人生に挫折し重い心の傷をうけた人が、安らぎをこの書のなかに見出した例はかぎりなくあります。

この書を通して親鸞聖人は、いまもなお悩める人びとの心の中に生きつづけておられるのです。…『歎異抄』とは、九十年にもわたる苦難の生涯を、ただひとすじに人生の真実を追いつづけた希代の宗教者、親鸞聖人の心の軌跡をあざやかに記した聖典なのです。

(引用:梯實圓 著『聖典セミナー 歎異抄』)

 

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