【お彼岸のご法話②】講師:木村大信師【信行寺 秋季彼岸法要】二日目

【お彼岸のご法話】
◆信行寺 秋季彼岸法要
◆令和3年(2021)9月20日
◆講師:木村大信師
(浄土真宗本願寺派布教使/福岡県筑紫野市 光傳寺)

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昨日は、彼岸の本来の意味合いについてお話をさせていただきました。阿弥陀様、仏様と一言で言いましても、これは一般名詞です。仏様といっても、色んな仏様がいらっしゃいます。大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来。私たち浄土真宗のご本尊は、阿弥陀仏、阿弥陀如来であります。

その阿弥陀様が、すべての生きとし生けるいのちあるものを、必ずお浄土に迎えとって仏にせずにはおれませんと願われたのが、私たちがよく耳にする本願というお言葉です。じゃあ阿弥陀様はなぜそんな途方もない、全てのいのちを浄土に迎えとって仏にするというような願いを、お建てになられたのか。それは、そうせずにはおられない対象の私どもの存在があるからです。

 

それは、苦悩の有情とおさえてあります。苦しみ悩むもの。何で苦しみ悩んでいるのか。それは全部、原因のもとは私たち側にあるんですよ。

苦の反対は楽と言いますね。私たちは多かれ少なかれ、自分にとって楽な人生を目指しています。言い方変えたら理想の人生ですよ。自分に心配事がない。健康面においても経済的な事情でも、人間関係、仕事の面でも、自分の思い描いた通りに事が進んでいったり、私のことを家族や周りがみんな理解してくれれば、こんな楽な人生はないでしょう。

じゃあ、そういってますかって尋ねたらどうでしょうか。物事の大半、それと裏腹じゃないでしょうか。だから人生は苦っておさえてあるんでしょう。

でも苦の原因、もとが私というのはどういうことか。私の思い通りにいけばいいなというのは、ここに10人いれば10人とも違うんですよ、考え方が。私はこういけばいいなと思っても、隣にいらっしゃる方はこういけばいいという考え方は違います。一人一人考え方がバラバラなのに、私たちの一人一人が思い通りにいく人生なんてないんですよね。だから人生は思い通りになりません。むしろ人生は苦です。そういうふうに、仏教のスタート、起源であるお釈迦様は、私たちに教えてくださいました。

 

思い通りにならん人生を、私の理想に近い楽な人生を願おうと躍起になるから、悩み苦しんでいかなきゃならんのですね。そのことに気づいたら、少しはそんなところから抜け出せるのかも分からんけれども、それが分からない。何年経ってもそんな自覚がないままに、いつもなぜあの人は分からんのだろう、なぜ家内は分からんのだろう、主人は分からんのだろうと私たちは思って生きています。おそらく、連れ合いの方も同じ思いだと思いますよ。なぜ妻は分からんのだろう、子どもや孫は分からんのだろうと思っている。

人間関係でもそうですし、政治や国も私の思った通りに動いてはくれません。動けない面もあるでしょう。今のコロナ騒動の中で、思う通りに薬が確保できない。その中に不良品もあったり。ワクチン接種も義務ではないから、接種をしない、できないという方もおられます。すると、国民の接種率が9割に手は届くはずもないんですよ。頑張っても7割ぐらいまでしか到達しない。政治家、一国を司る総理大臣といえども、自分の思った通りに政治が動かせない。

私たちの生活の端々でね、いろんなことがあろうと思います。自分が成し遂げたいような夢や、将来像があればね、それに向かって最大限努力することは必要でしょう。自分がそうなりたいのであれば、努力しないと可能性が限りなく低くなります。でも、その努力をしたからといって必ずそれが実現できるとは限りません。いろんな時の事情もあるでしょう。色んな諸般の事情もあるでしょう。なれるかどうか分からない。

だから言葉は非常になげやりに聞こえるかも分かりませんけども、なるようにしかならんのです。しかし、なるようにはなります。

 

そんな思い通りにならん人生に苦しみ、その苦しみのもとが自分側にあることにも気づかず、相手に分かってほしい、自分の思い通りにいってほしいと躍起になって苦しんでいる。そんな私を必ずお浄土に迎えとって、仏にせずにはおれませんと願われたのが、阿弥陀という仏様です。

ご開山 親鸞聖人は、その阿弥陀仏の願いを「親鸞一人がため」とおっしゃいましたけども、いのちの問題は、私が私の問題だということに気づかんと始まらんのですよ。一般論や客観論なんてありえないんですよ。この私が何のためにこの世にいのちをいただき、この私がどうなろうとするのか。阿弥陀仏は、こんな木村大信を必ずや浄土に迎えて仏にするという誓いを、南無阿弥陀仏という名のりになられて、私の上に今はたらき続けてくださっております。

念仏というのはね、呪文じゃないんですよ。何か自分の厚かましい願い事を叶えようとする時に、「南無阿弥陀仏」なんておっしゃるけど、そんなもんじゃない。「ただ念仏し」というのはね、私の上にあなたの本来の親、永遠真実の人類共通の親がおるよということの名のりがね、南無阿弥陀仏です。私の上に、永遠真実の変わらぬ、絶対にお前を裏切ることのない、辛い時は辛いままに、悲しい時は一緒に、悲しんでくださっておる、そんな阿弥陀という仏様が私の上にはたらきかけてくださっておるのが、南無阿弥陀仏の親の名のりです。南無阿弥陀仏がここにおるよという親の名のりです。

私たちも子どもが幼い時に、幼稚園や小学校の運動会で言ったでしょう。休憩時間、お昼休みになると、「お母さんここにいるよ」「パパここにいるよ」って言って、我が子に向かって声をあげませんでしたか。そしたら、聞きなれたパパの声を、お母さんの声を聞いて、子どもが駆け寄ってきます。それが、親がここにいることを示す親の名のりです。

南無阿弥陀仏とは、全人類共通の、永遠真実の親がここにおるよという名のりですから、その名のりそのものをね、しっかり届いておることを実感することが大切です。山の共鳴じゃないですが、こだまを返すようにヤッホーと言ったら、あちらからヤッホーが返ってくるじゃないですか。仏様の方から「南無阿弥陀仏」というヤッホーが来たら、こっち側からも「南無阿弥陀仏」のヤッホーを返すように、私自身の念仏を相続する。

そしてその念仏のままに、自分でもがいて喘いで苦悩して、元が自分にあることも気づかないで、悩み苦しんで、また狂ってる私を哀れみ、どうかそこに目を向けておくれってはたらいてくださっている、阿弥陀様のおはたらきをいただきながらね。私自身も、せっかくいただいたいのちを、無駄にすることなく、残された時間、ゆっくりゆっくりでもいい。充実した時間を過ごしていければいいかなっていうふうに感じております。

 

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合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)

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