▼音声でもお聞きいただけます
幸福学の第一人者である慶応義塾大学の前野隆司教授の研究グループが開発した「幸せを育む対話カード」(ウェルビーイングダイアローグカード/WBDC)。
トランプに書かれた52の問いについて考えていくことで、幸福度が高まっていくというものです。
▼詳しくはこちら
https://www.well-being-dialogue-card.com/
健康を育むことをテーマにしたヘルシーテンプルという取り組みがあり、そのオンラインの朝会に、私は今参加をさせていただいています。
全国、多宗派のお坊さんが日替わりで、朝会のファシリテーターをつとめ、日々、150~200名ほどの方がご参加くださっています。
▼ヘルシーテンプルはこちら
https://www.tera-buddha.net/id85/
今日が私の担当で、ヘルシーテンプルの朝会の時間に、この「幸せを育む対話カード」(ウェルビーイングダイアローグカード/WBDC)の問いについて、皆さんと考えさせていただきました。
(一般社団法人 寺子屋ブッダが主宰するヘルシーテンプルの企画に対して、前野隆司教授の研究グループがご協力くださっています)
今回の問いは、こちらです。
人と自分を比べそうになるのを克服する方法は?
皆さんもご一緒に考えていただければと思います。
どんなことを考えられましたか?
ヘルシーテンプルの朝会では、ご参加の皆さんからも様々なご意見をいただき、共に多くの気づきをいただいています。
色々な観点からのご意見をいただくので、とても勉強になります。
さて、現時点での問いへの私なりの答えを、今日の言葉として紹介させていただきます。
◆今日の言葉
自分を見つめてみると、いつも自分中心に物事を見ていることに気付く。
人と比べ優れていたら慢心を抱き、劣っていたら卑下心を抱く。
自分はいつも自分に捉われていると気付かされる時、比較を離れた広い心でありたいと願う。
物事を客観的に見ることはとても難しいことです。
いつも自分の思いやその時の気分、対象者、対象物への感情などの主観が混じります。
「あの人は良い人、悪い人」「これは良いもの、悪いもの」という時の判断の基準は何でしょうか?
自分ですね。自分の価値観や経験、好き嫌いなど、自分を基準にして良い悪いを判断しています。
これが主観です。我々は、自分の見たいように物事を見ていると言ってもいいかと思います。
自分にとってその時都合が良かったり、心地良いものを良いものとし、都合が悪く、心地悪いものを悪いものとしていることも多いものです。
仕事上で人とコミュニケーションする際にも、理屈で考えるより、感情(好き嫌いや損得)で考えることも多いのではないでしょうか?
仕事などでは、この自分の主観が大切という理論も勿論ありますが、ここの話のポイントはそこではなく、我々とは主観的に見てしまう生き物であるというところをポイントとして確認したいと思います。
客観的に見ようと思えば思うほど、何一つとして本当の客観視ができていないことに気付かされます。
もっとも、主観で見ることは、自分の身を守る意味もあります。危険を察知するなどの主観的な感覚がなければ、いのちがいくつあっても足りません。
我々、自分の生命を維持しようというように、細胞レベルで主観がそなわっているともいえます。
そして、幸せでいたいという主観的な願いもあります。
我々は、自分の身を守り、幸せでいたいと願うこともありつつ、物事を自分中心に見てしまい、その見方に捉われてしまうということもあります。
この両面性の中で葛藤しながら生きているのが人間です。
執着とは、人間や生命が生きる上での根源的な性質であり、根深いものがあります。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の言葉に、このような言葉があります。
無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
『一念多念証文』
意訳するとこのような意味になります。
執着が我々の心身に満ちみちていて、悩み煩わせている。我執によって捉われ、ものごとをありのままに見れないさまは、まるで暗闇の中にいるようである。
欲も多く、怒りや腹立ち、そねみ、ねたむ心が多く、常にわきおこってきて、今生のいのち終えるその時まで、とどまらず、消えず、絶えることはない。
この言葉は、親鸞聖人がご自身のありようを言った言葉でもあります。
我執を離れよう、手離そうとすればするほど、その我執の大きさに圧倒され、我執を離れることの難しさに気付かされます。
平穏でいられる中であれば、客観視できるように思う時もあります。
しかし、喉が渇いてどうしようもない時に水を求めるように、戦地で銃を向けられたらとっさに相手を撃ってしまうこともあるように、自分の生き死にのところまで突き詰めていくと、我執を手離すことの難しさを思わずにはいれません。
さて、人と比較するということですが、これは相手を見ているようで、根本は自分を見ています。
どういうことかというと、本当に相手の立場で見ているのであれば、相手の優れている部分を見た時に素直に喜べるはずです。
凄い!嬉しいね!頑張ったね!と。
まるで、我が子が、初めて歩いたり、話したりすることができたことを見て感慨深く喜んだりするようなものです。
しかし、相手の優れている部分を見て、嫉妬心を抱いたり、腹立たしいと思ったり、相手をけなすようなことを言ったりすることはないでしょうか。
人と比較するということは、相手を見ているようで、自分を中心に置いていて、結局自分を見ていることなんですね。
自分を離れているのであれば、悔しがったり、自分が傷ついたりもしないはずですから。
比較する心とは、自分中心の執着、我執を根本としているので、とても根深いものだと思います。
比較して、自分の生きる実感を感じたり、傷付かないように自分を守っている側面もありますから。
人と比べ、自分の方が優れていると思ったら、慢心を抱くこともあるでしょう。
逆に自分が劣っていると感じれば、卑下する心が生まれることもあります。
そのように、いつも比較して一喜一憂しているのが、我々の日々でもあります。
比較する心とは、この執着、我執を根本としていること、そしてその執着、我執はとても根深いということに気付き、自覚することが重要だと思います。
そして、執着、我執があるからしょうがないとそのまま居直るかというと、我々はやはりそのままでいいとも思わない部分があります。
自分が良ければ良いという生き方では幸せになれない。
自分が良ければ良いという生き方によって、孤独や虚しさを感じる。
こうしたことを本能的に理解したり、経験したり、学んでいるからです。
仏教には、自利利他という考え方があります。
自利利他の言葉は、深い意味もありますが、平たくいうとすれば、自らを大切にしつつ、他者をも大切にする、他者のためになす。そして、他者を大切にする中に、自らの喜びをも感じる。
そうした自利利他の生き方が、人を幸せに導いていくという考え方です。
また、自他一如という言葉があります。
自らと他者とを区別しない、自他が一の如しというのが、仏様の見方、お心だとする言葉です。
自らと他者とを区別しないことは、とても難しいことですが、そうした自己の執着、自我を離れたところに、はじめて物事がありのままに見えてくると言います。この仏様の見方を、智慧の眼で見るといいます。
そして、自らと他者とを区別しないということは、慈悲の心でもあります。他者の苦悩を自らの苦悩のように痛み悲しみ、憐れむ。そうした思いやりの心を慈悲と言います。
仏様とは、こうした智慧と慈悲をそなえた方だといわれます。
浄土真宗では、こうした仏様のあり方、存在を、経典や聖典を通して学んでいきます。
学び、自らを見つめれば見つめるほど、執着や我執、比較から離れることが難しい存在であるということに気付かされます。
しかし、それは決して後ろ向きではなく、仏様にしっかりと救いとられているという温もりの中に、ありのままの自分、飾り立てる必要のない自分でいられることを喜んでいくことでもあります。
私はこれだけ素晴らしい人間ですと誇るのでもなく、私は人に比べて劣っていると卑下するのでもなく、そのままの自分で良いのだと頷かれてくる。
そして、比較を離れた広い心でありたいと願う。この広い心は仏様の心です。仏様には中々なりようのない私ですが、仏法との出遇いによって、仏様の広い心に触れるご縁をいただいたことに感謝しつつ、今日の言葉を紡ぎました。
「人と自分を比べそうになるのを克服する方法は?」という問いに対する現時点での私なりの答えは以上です。
___
最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
___
更新情報は各種SNSにて配信しておりますので、宜しければ是非、「フォロー」いただけますと幸いです。
▼関連の記事はこちら