人生で真っ先に解決すべき問題【歎異抄】

皆さん、こんにちは。僧侶の神崎修生です。

この「歎異抄(たんにしょう)講座」では、名著の仏教書である『歎異抄』の心を紐解きながら、人生の意味を味わい、生きる喜びや感謝の心を深めていこうとするものです。

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さて今回は、「古の書物に触れる意義」「自分の根本問題である我欲、執着」「本当に大切なものに目覚めさせられていく」というテーマで記していきます。

 

古の書物に触れる意義

『歎異抄』とは、「たんにしょう」と読みますが、この書物は、浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人の言葉を、門弟の唯円房という方がまとめた書物だと言われています。

読めば読むほど、自分の事実があぶりだされるような書物で、必然的に人生について考えさせられるような書物です。

さて、古の書物を読むということは、人類の智慧に触れるということでもあります。現代に伝わっている古の書物は、時代の変遷をくぐり抜け、淘汰されずに伝わってきたものです。それは、多くの人の依りどころとなり、支え続け、導き続けてきたものであるとも言えます。

つまりそこには、時代が変わろうとも変わることのない、普遍的、本質的なことが記されているのです。この『歎異抄』もまさしくそのような書物であると評価をされています。

古の書物を読み、人類の智慧に触れていくことは、自分の正解、正義といった限られた価値観、世界観が破られ、普く人類的な価値観、世界観が知らされてくるということでもあります。自分の力、自分の考えを最優先させ、そこに固執して生きていこうとすると、人は考え方や生き方が非常に限定されたものになってしまいます。

しかし、考えてみると、そもそも自分の価値観も、これまでの生まれ育った環境や、受けてきた教育、生きている時代、場所、代々受け継がれてきた薫陶、性質など、さまざまな要素によって成り立っています。

寿命が長くなったとはいえ、人間はたかだか100年かそこらしか生きることはできません。その間の一人の経験は、勿論軽いものではありませんが、自分の力、考え方のみを依りどころとし、生きていくことの限界性と、そもそも自分の価値観や世界観は、先人から受け継がれてきたものであるという事実を鑑みると、積極的に先人の智慧に学んでいくという姿勢は、生きていく上でとても重要なことであると思わされます。

すでに、先人の智慧に学ばれている方は、このことに深く頷いてくださることと思います。

 

自分の根本問題である我欲、執着

この『歎異抄』の内容は、人間の本質である我欲、執着が常に問題とされています我欲、執着は、時代が変わろうとも、常に人類、そして一個人につきまとう問題です。この『歎異抄』を読むことで、いかに人間が、いや自分が、根源的に自分中心な存在であるかに気付かされてきます。

実は、この我欲の問題が、一生我々につきまとい、悩ませ、苦しめ続けていると仏教では考えます。何か問題が起きた時に、我々はその問題の原因をどこに求めるでしょうか。死を実感すると、はっきりと分かりますが、人間はやはり自分が大切でかわいいものです。

ですから、多くの場合、問題が起きた時には、自分を守るため、原因を自分にではなく、他に求め、責任を転嫁します。「あの人が悪い」、「あのせいでこんなことになった」、「これがなければうまくいったのに」などなど、例を挙げればきりがありません。様々な問題の原因が自分にあると思われる方は、自分を客観視することができている方か、もしくは自分に自信が持てない方でしょう。

問題の原因は自分にあると認め、頷いていくことは容易ではありません。自分の外側に向かって指をさし、鬼のような顔で睨み、罵詈雑言を並べ立てる。そうした自己中心の我欲が、我々の根本にどっかりと居座り、常に頭にもたげてきます。

自分におけるほとんどの問題が、実は我欲や執着にあることに気付かずに、自分以外に原因を決めつけて、自分の都合を優先して主張をし生きているのが、我々人間であるとも言えます。

勿論、自分に原因がない問題もあります。しかし、自分においての多くの問題が、我欲、執着の問題であるのも事実です。少々言葉がきついようですが、それが、何千年と変わらない人の事実であると見抜き、自己の執着、我欲に根本原因を見出し、我欲を何とかしなければ、ほとんどの問題は解決しないことに気付かれたのが、仏教の開祖であるお釈迦様でした。

仏教には様々な宗派がありますが、根本的には、この我欲、執着、自己中心性という問題に焦点を当て、これをどうしたらよいかということが命題となっています。教えの違いは、その我欲の問題を克服するための手段や行為の違いです。

浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人においても、我欲、執着は常に問題でした。しかし、自分自身を深く見つめ、我欲を手離そうとすればするほど、手離すことが難しいことを自覚された方でもありました。ですから、自分を聖者であるということは一度もなく、愚か者であると言い切っていかれたのでした。

『歎異抄』には、その親鸞聖人の言葉が示してあると言われています。親鸞聖人を通して、仏教を学んでいく場合には、賢くなっていく、聖者になっていくという方向よりは、自分の心の汚さに気付かされ、自分の愚かさが深く自覚されていくという方向での学びになると言われます。

 

本当に大切なものに目覚めさせられていく

愚かであることが自覚されてくるからといって、自分を傷付け、ネガティブに捉えていくということでは決してありません。愚かさが自覚されるとは、我欲を抱えて生きている私であるという事実に気付かされ、ひらきなおらずに生きていこうとする姿勢です。

自分はいい人だ、自分は間違いない、自分は正しいという、自分の正義、正当性を他者に押しつける生き方ではありません。自分は自分が大切だと思う存在だ。だから自分の見解は、自分中心の見解になってしまっている。

人それぞれに立場があるわけだから、考え方が違って当然だ。その上で、正しいこととは何だろうか。そう深く見つめていく生き方です。これはとても難しい生き方だと言えます。

明確な論理や根拠があって、これが正しいという場合はまだよいですが、しかし、その論理や根拠も、自分の立場から見た解釈あり、絶対的な客観性を担保するのは、本当に難しいことです。話を優位に進めたり、自分や他者を納得させるために論理を用いることもあるわけです。

人間には我欲の問題があり、自分の正義はあくまで自分正義、自分たちの正義であり、他者からしたら、それは悪にもなる場合もあるわけです。人生とは本当に難しいですね。

一生懸命頑張って、精一杯生きているにも関わらず、悩み苦しみの連鎖から抜け出せない。苦しみ続け、人生の晩年に、いったい自分の人生は何だったのだろうか、何のためにこれだけ頑張ったのだろうかと、愚痴をこぼし、自己嫌悪にさいなまれる方は多くおられます。

時代は変わろうとも、我欲、執着の問題は変わっていません。お釈迦様の当時も、戦争、差別、貧困などの問題があり、その根本には我欲、執着の問題がありました。人は思い通りにしたいと思い生き、思い通りにならないことに苦しむ。人はなぜ争い合うのか、奪い合うのか。それらの根本にはすべて、我欲、執着の問題があるわけです。

それぞれが、自分が自分がと思い生きている生き方は、利害損得が一致した時のみの関係性で人脈や契約が成立していきます。ですから、利害損得が一致しない場合には、関係性は成り立ちません。

いかに自分が良かれと思っても、他者にとっては良くない場合もあります。自分のことばかり考えている人の周りには、それぞれ自分のことばかりを考えている人が集まります。

自分がある程度の力や権力をもち、互いの力関係が明確であったり、拮抗している場合は、争いが起きにくいですが、そのバランスが崩れた途端、争いや奪い合いが始まります。

お釈迦様の当時も、親鸞聖人の当時も、そして現代も、表面的におきる事象は時代によって変わろうとも、根本問題は変わらないわけです。そしてその人間の根本問題である我欲、執着に着目をし、それをどうしたら良いかと考え、実践し続けてきたのが仏教であると言えます。

ですから、その一つである『歎異抄』を読むことで、必然的に、自分の我欲の問題に行き当たり、人生を考えさせられることになるでしょう。これは、生涯にわたる大きな問題であり、とても遠回りするように感じられますが、実は、人間が最も考え、克服すべき問題であるとも言えます。

その暁には、自分が良ければ良い、我が我がという自己中心的な生き方から、全ての存在が自らを成り立たせ、私が生きている、いや生かされているという事実に気付かされ、本当に大切なものに目覚めさせられていくということがあります。

これから、『歎異抄』を拝読しながら、共に人生について考えてまいりたいと思います。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

合掌


浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

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