浄土真宗の宗祖【親鸞聖人の生涯】~出家編~

前回、浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人の誕生と誕生地のお話をしました。

今回は、親鸞聖人の家系や出家、また出家の背景などについて、お話をしていきます。

▼この内容は動画でもご覧いただけます

◆親鸞聖人の家系

日野有範

親鸞聖人は、藤原氏末流の日野氏の流れと言われています。

父は日野有範(ひのありのり)といい、覚如上人(かくにょしょうにん/親鸞聖人のひ孫)の書かれた『御伝鈔』(ごでんしょう)によると、
「皇太后宮大進」(こうたいごうぐうのだいしん)という役職にあったといいます。

この役職は、前の天皇である後白河上皇の后(きさき)藤原忻子(ふじわらのきんし)に仕える第三等官になります。

日野氏は学問の家系だそうです。

母は不詳とされています。源義家(みなもとのよしいえ)の娘である吉光女(きっこうにょ)という説もありますが、その説は現実的ではないだろうと言われています。

◆親鸞聖人の出家

スライド6

親鸞聖人は、養和(ようわ)元年(1181年)の春、9歳で出家、得度(とくど/僧侶になるための儀式)をされたと伝わっています。

伯父である日野範網(のりつな/日野有範の兄)に連れられて、慈円(慈鎮)和尚(じえん(じちん)かしょう)のもとで得度をされたといいます。

僧名は範宴(はんえん)です。

得度の場所は、現在の京都市東山区の青蓮院(しょうれんいん)あたりであるといわれ、現在の青蓮院には、「親鸞聖人得度聖地」と書かれた石碑や「御得度の間」などがあります。

当時は、青蓮院は現在の場所になく、その地には慈円和尚の里坊があったそうです。

ちなみに慈円和尚は、天台座主(てんだいざす/天台で最も高い位)を4度もなった方で、当時の仏教界の大人物といえます。

さて、得度の時の伝承にこのようなものがあります。

得度をおこなうのが日暮れ時になってしまったので、また明日にしようと慈円和尚から提案をされたそうです。

それに対して、9歳の親鸞聖人は歌をよまれ、今から得度式をしてほしいと訴えたという伝承です。

時は、桜が咲き誇る季節。親鸞聖人がよまれたのはこのような歌でした。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」

今、咲き誇っている桜も今晩嵐にあって散ってしまうかもしれない。
同じように自分も、明日にはどうなってしまうか分からない身です。

という内容の歌です。

この伝承からは、親鸞聖人が9歳ながらに諸行無常の世を感じ、だからこそ今から得度式をしてほしいという切なる願いを持っていたことが表現されているように思われます。

それは、幼くして父母と別れ、寺に預けられなければならなかった事情や時代が背景としてあったことが現わされているともいえます。

実際に歌をよまれたのか、9歳で得度をされたのか、慈円和尚だったのかというところは、史実としてというよりは、そこから何を表現しようとしているのかに注目してみることが良いかと思います。

◆親鸞聖人の出家の背景

日野家系図

親鸞聖人には弟が4人いますが、聖人も含め5人すべてが出家をしています。

弟の尋有(じんう)と有意(うい)は、天台宗山門派(さんもんは)にて出家をし、兼有(けんう)と行兼(ぎょうけん)は、天台宗寺門派(じもんは)にて出家をしています。

また、父である有範も出家をし、三室戸寺にいたと伝わっています。

一家全員が出家をするということは、日野有範家としては家筋が絶えることでもあり、当時でもかなり珍しいケースだということです。

つまり、日野有範家全員が出家をせざるをえないような状況に追い込まれ、親鸞聖人も9歳の時に出家を余儀なくされたと考えられます。

いったいどんなことが起きたのでしょうか。

いわれているのが、「鹿ケ谷の謀議」(ししがたにのぼうぎ)という平家打倒の陰謀事件のことです。

日野家は、聖人の伯父の範綱宗業(むねなり)、父の有範とも、後白河上皇の関連での役職をもち、「鹿ケ谷の謀議」との関りがあって、官職を失ったのではないかといわれています。

その影響もあり、親鸞聖人をはじめ、一家全員が出家するという事態になったのではないかといわれています。

また、親鸞聖人が出家をした養和(ようわ)元年(1181年)は、養和の飢饉がおこり、聖人もいた京都の市中では飢え死ぬ人が多数出て、街には遺体があふれ、各所で異臭を放っていたといいます。

当時を記した書物には、4万人を超える死者が出たと記され、川の付近に打ち捨てられた遺体はその数に入っていなかったともいいますので、かなり悲惨な状況であったと想像されます。

日照りや、台風、洪水などが続けておこり、飢饉の原因となったともいわれています。

親鸞聖人がわずか9歳で寺に預けられたのは、このような状況下でした。その時の親鸞聖人の思いとは、どのようなものだったでしょうか。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」

歌にある、明日があるかは分からないという言葉には、このような背景が込められていると考えられます。

今回は、親鸞聖人の生涯の出家に関して、お話させていただきました。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
___
更新情報は各種SNSにて配信しておりますので、宜しければ是非、「フォロー」いただけますと幸いです。