【浄土真宗講座】浄土真宗とはどのような教えか

こんにちは。僧侶の神崎修生です。

▼動画や音声で視聴したい方は「神崎修生の寺子屋チャンネル」へどうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=AiYC82XQPEw&t=2s

「浄土真宗の教えについて知りたい」というお声をいただきましたので、【浄土真宗講座】と題して連載をさせていただきます。

今回は、浄土真宗には修行して功徳を積むという考え方がないことについて、お話しようと思います。


・浄土真宗と聞いたことはあるけれど、どのような宗派なのかは知らないという方。
・何となく、仏教や浄土真宗、親鸞(しんらん)という人に興味があるという方。
・自分の家は浄土真宗らしいので、少し関心があるという方。

などにオススメです。

読んでいただくことで、

・仏教や浄土真宗の考え方に触れられる。
・浄土真宗とは、どのような宗派なのかが分かる。
・親鸞さんについて、知ることができる。

ということを目指した内容にしていきたいと思っています。

ご年配の方には、仏教や浄土真宗の考え方に触れて、心を穏やかに、日々をより良く過ごす一因になれば嬉しく思います。

また、お若い方にも、仏教の考え方に触れていただき、家庭や仕事、人生をより良く生きていく手助けになれば嬉しいです。


できるだけ、分かりやすい言葉やたとえを用いて、関心を持っていただけるようにお話したいと思います。是非ご覧ください。

 

目次

  1. 浄土真宗とはどのような教えか。
  2. 修行して功徳を積むという考え方がない
  3. 執着、我欲を自分ごととして考えてみる
  4. 親鸞聖人とは

 

浄土真宗とはどのような教えか。

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他の宗派と比べて、浄土真宗にはいくつかの特徴があります。

・修行して功徳を積むという考え方がない。
・自分は善人ではなく、悪人であるという自覚がうまれやすい。
・阿弥陀如来という仏様の救いの中にあることを喜んでいく。
・この世でのいのちが尽きたら、仏様の国へ生まれる。


こういった特徴があります。これを見ると、頭の中に「?マーク」が浮かぶ方も多いかもしれませんね。「仏様って何?」、「仏様の国ってあるの?」。素朴な疑問ですよね。


私も、学び始めた時はそうでした。


・まずは、専門用語が分からない。
・用語が分かってきても、その意味が理解できない。
・意味や理屈が分かってきても、納得できない。


こんな感じでした。その時に先生方が教えてくださったのは、「まずは分からなくてもいい」、「疑問や、知りたいという思いはとても大事」、「学んでいく中や、仏様の話を聞いていく中で、毛穴から染みこむように段々と頷けてくる」ということでした。

今となっては、言われた通りだったと思います。
関心や疑問を大切にしながらも、是非お読みいただければと思います。

修行して功徳を積むという考え方がない

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今回は、浄土真宗の特徴の1つである、「修行して功徳を積むという考え方がない」ということについて、お話をしたいと思います。


さて、仏教で目指しているのは、さとりというものです。これは、自分中心の欲を離れ、ものごとをありのままに見る智慧と、思いやり慈しみの慈悲の心とをそなえた存在になっていくというものです。そのプロセスとして修行があります。


浄土真宗に「修行して功徳を積むという考え方がない」というのは、宗祖(しゅうそ)である親鸞聖人(しょうにん)の生涯の歩みが密接に関わっています。親鸞聖人は、9歳から仏道修行にはげまれ、その様々な修行の中で、我欲を手離すことへの人間的な限界と、自らへの絶望を感じられたと伝えられています。

いくら行にはげもうとも、さとりにいたりようのない、善の功徳を積みようのない自分であることを、親鸞聖人は深く自覚されたといいます。聖人の言葉はいくつも書物に遺っており、そうした内容の書かれた言葉を紹介致します。


◇『正像末和讃』(しょうぞうまつ わさん)

浄土真宗に帰(き)すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
清浄の心もさらになし

◇意訳
素晴らしい真実の教えに帰依(きえ)しましたが、真実の心となることはありえません。
嘘いつわりのわが身ですから、我欲から離れた清らかな心は全くありません。


このように、親鸞聖人は、自らのことを、嘘いつわりのわが身であり、我欲から離れた清らかな心は全くないと言い切られました。

お坊さんというと、身や心を整えて、清らかな人というイメージはないでしょうか。しかし、親鸞聖人は、自分がすぐれているとか、清らかであると言われたことはありませんでした。

自分を清らかな人であると見せることもできたにも関わらず、決してそうはされませんでした。


それは一体、なぜだったのでしょうか。

それは、さとりを目指し、厳しい修行に励む中で見えてきた我欲の問題があったからであり、人生を生きる中で、真摯に仏道に向き合えば向き合うほど、自分中心の我欲が見えてきたからでした。

執着、我欲を自分ごととして考えてみる

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自分自身に執着(しゅうじゃく)する我欲について、少し自分に引き寄せて考えてみましょう。

我々、ある程度自分の思い通りにことが進んでいる時は、心地良く、心穏やかでいることができるかと思います。しかし、思い通りにならないことが起きたり、追い込まれると、心がざわつきます。

自分が挨拶したのに相手が返してくれない時、並んでいた列を割り込まれた時、のどが乾いてどうしようもない時、風邪などで体調が悪いときなど、どのような感情がわいてくるでしょうか。

相手が挨拶を返してくれないと、「あの人は私を無視した」、「無関心でおかしな人だ」など、怒りの心がわいてきたり、相手のイメージを変えて見てしまうかもしれません。

列を割り込まれたら、「こちらが先にが並んでいるのに非常識だ」と、怒りの心がわいてくるかもしれません。

喉が渇いていると、「早く飲みたい」という貪りの心がわいてきたり、イライラしたりします。

体調が悪いと、「早く治りたい」と思いますし、症状ばかりに神経がいってどうしようもなくなります。


健康は大事ですし、社会ではマナーも大事です。ここで言いたかったのは、我々、心穏やかでいられたり、人のことを思いやれたりするのは、ある程度自分の思い通りにことが進んでいたり、自分の状態がある程度良い時だからかもしれません。

自分の望まないことが起きたり、必要なものが手に入らなかったり、体調が悪かったりなど、精神的肉体的に追い込まれてくると、怒りの心や貪りの心がもろくもわき出てくることがあります。

追い込まれた時に、人の本性が見えるといいいますね。


仏教には、飲まず食わずの修行もあります(浄土真宗にはありません)が、こうした追い込まれた状況の中では、自分中心の執着や我欲はまざまざと見えてくることでしょう。

人間関係においても、思い通りにならないことは多くあります。互いの立場やプライドを守るために自己主張をし合ったり、人をのけものにしたり、手柄やお金を取り合ったり。関係性が近いほど、もめたら取り返しのつかないことにもなります。

人は自分が大切で可愛いものです。それほど、自分への執着、我欲は根深いものです。

親鸞聖人とは

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親鸞聖人とは、そのように、自分の深い部分、人間の根っこの部分をしっかりと見つめて、そのことに嘘をつかない人でした。心の奥底を見つめてみたら、いつも自分中心の欲がどっかりと居座っていた。いや、体中、心中、全てが自分中心の欲でできあがっていた。

そんな自分が励んで修行をしたところで功徳になりようがない。さとりにいたれるわけがない。そのような人間としての限界と、自らに絶望を感じたのでした。

それは、真摯に仏道を歩もうと志したからこそ、見えてきたものでしょう。何気ない日常の中では、そこまで思うこともないかもしれません。


自分を律して、人のことを思いやることは素晴らしいことです。しかし、人のためと思えば思うほど、これは自分のためにやっているのではないかという疑問もわいてきます。

人に寄り添おうと思えば思うほど、できないことが痛感されます。自分と他者との間に線を引かざるをえない。どこまでいっても、自分が他者にはなりようがない。


真摯に道を歩む方にとって、絶望を感じる方にとって、親鸞聖人の嘘いつわりのない姿勢や、人間の本質を見抜いた言葉は、心を打ち、これまで数多くの人を魅了してきたのでした。

繰り返し繰り返し、親鸞聖人の言葉に触れ、自分自身を徐々に見つめていく中で、自分がおこなう行は功徳にはなりようがないと自覚されてきます。それは決して悲観的なわけではなく、自分の事実をしっかりと見つめていくといったほうが正しいでしょう。


親鸞聖人が悲観的であったかというと、やはりそうではありません。仏様の慈悲に包まれ、喜びに生きた方でした。

親鸞聖人という人物像は、自分はさとりようのない、救われようのない自分であるという深い自覚の側面と、そんな救われようのない自分を仏様に救っていただいたという喜びの側面をセットにして考えることで、初めて見えてきます。


このような親鸞聖人の生涯を通した生き方や姿勢が、浄土真宗の教えの根幹にあります。

親鸞聖人の言葉や、浄土真宗の教えを表面的に理解しようとしても、本当の意味は捉えられず、誤って理解してしまうことがあります。

今回の「修行して功徳を積むという考え方がない」ということも、修行しなくていいのなら楽でいいやと、一見思えるのですが、そういう意味ではありません。

自分はさとりようのない、救われようのない自分であるという深い自覚が前提にある考え方です。いくら行にはげもうとも、さとりにいたりようのない、善の功徳を積みようのない自分であるという親鸞聖人の深い自覚をもとにして、浄土真宗では「修行して功徳を積むという考え方がない」という理解に至っています。

今回は、ここまでです。皆さんいかがだったでしょうか。最初にしては、少し難しい内容だったかもしれません。ですが、できるだけ分かりやすい言葉で、そして読んで人生や日常の生活にとって意義のある内容を心がけて、お話をしたいと思います。


今回は、浄土真宗の教えとはどんな教えかということを大きなテーマとして、浄土真宗には「修行して功徳を積むという考え方がない」ということについてお話をしました。


それは、自分を深く見つめる中で、自分は執着、我欲を抱えた存在であることに気付かされ、そのような自分の行は、功徳にはなりようがないという自覚から生まれてくる考え方でした。

次回以降も、浄土真宗の教えについて、別の角度からみていきたいと思います。

最後までご覧頂き、ありがとうございました。

合掌


浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

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