私は「幸せを育む時間」と題し、人生や幸せについて考えるご縁となるようなお話をさせていただいております。
今回は、菅原文子さんの著書『生かされて』より、菅原さんの東日本大震災での経験や思いについてお話をさせていただきます。
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◆菅原文子さんの東日本大震災での経験
菅原文子さんは、宮城県気仙沼市で100年続く「すがとよ」という酒店を切り盛りしておられます。2011年3月11日、東日本大震災の津波で、義理のお父様、お母様と、夫の豊和さんを亡くされました。夫の豊和さんは、手を取り合った瞬間、目の前で凄まじい波にのみこまれていったと言います。
そうしたご経験をされた菅原さんの言葉からは、
「人が生きるとは何か」
「大切な人を失うとはどういうことか」
「自然災害にあうとは」
「苦しみや悲しみを抱えながら歩んでいくとはどういうことか」
そうした色々なことを考えさせられます。
私はまだ菅原文子さんには、直接お会いしたことはないのですが、今年の春、ある方からのご縁で菅原さんから直接お手紙をいただくことがあり、著書『生かされて』をお送りいただきました。
著書を拝見させていただき、抱えきれないほどの事実や思いが、ここに記されていました。それと同時に、菅原さんがここまで歩んでこられた姿に、力をいただき、励まされもしました。
本日は、菅原文子さんの著書『生かされて』から、その一部をご紹介をさせていただきます。菅原さんの経験されたことや思いは、私にはとてもじゃないですが代弁できませんし、私が語っていいのだろうかという葛藤の思いも正直あります。
しかし、菅原さんの紡がれた言葉が伝播して、その言葉を必要とするどなたかの心に残ればいいなと思い、ご紹介させていただきます。
◆波にのまれし君の手
ではさっそく、本の一部を紹介致します。
あの日大津波で、夫と義父母の三人を失いました。夫は迎えに行った私と手を取り合った瞬間、真っ黒な凄まじい波に呑みこまれてしまいました。早く早くと叫びながら階段の5段目から左手を差し伸べた私の目の前から消えたのです。夫の指に触れ、互いの手を取り合おうとしたその瞬間です。夫の被っていた白い帽子が波にパーンと飛ばされ、その姿もろとも濁流の中に消えたのです。一瞬の出来事でしたが、今もスローモーションのように私の記憶によみがえり脳裏から離れません。
凄まじき波にのまれし君の手を
離して悲し我が身なり
狂わんばかりのその時は
何をも思わず 何をも感じず
涙も流れず
受け入れがたき現実に
わが魂はこわれしと
あの日 あの時 あの夜は
屋根にのぼりて生きのびし
津波の海と火の海と
いかなる言葉を使えしも
語るすべてをも失いて
只ひたすらに生きることのみ
助かることのみ となえたり
◆負げねぇぞ気仙沼
その後、救出された菅原さん。誰もが生きることに必死で、声を掛け合い、力を寄せ合い、助け合った日々だったと言います。そんなある日、ある人からこのようなことを言われたそうです。
「悲しいのはあなただけではない、みんな悲しいんだ」。
でも、そう言ったその人は、家族を失ってはいなかったそうです。菅原さんは、大切な家族三人を失っても泣いてはいけないのか、悲しんではいけないのかと、胸が張り裂けそうだったと言います。
夫の豊和さんは、津波にのまれてから行方不明。義父母は亡くなり、住む家もお金も無い。住んでいた地域も壊滅状態。そういう状況で、これからどう生きればいいのかと思われたそうです。
少しずつ日がたち、お店のお得意さんから、お酒を売ってくれという声があった時のこと。また酒屋の商(あきな)いをしよう、それしかない。そうすることが、自分たちにとって正しい生きる道だ。そう思えたそうです。
かろうじて立っていられるギリギリの精神状態の中、全てを失い、何もない中、それでも酒屋を再開することで生きてゆける。そう思ったそうです。菅原さんたちは、震災から一カ月半ほどで、仮設店舗にて商(あきな)いを再開されます。
そして、やりきれなさと、悔しさと、無性に奮い立つ気持ちで、「負げねぇぞ気仙沼」とお酒のラベルを書き、地酒に貼って店頭に並べると、復興のお酒として話題になったそうです。
◆あなたへ
震災から半年がたっても、夫の豊和さんは行方不明のまま。そんな頃、菅原さんは、行方不明の豊和さんに宛てて手紙を書いたそうです。書くことで悲しみも癒されるからと、ある方の勧めで筆をとったと言います。
「あなたへ」というタイトルのついたその手紙は、この本にも収録させれています。その一部を読ませていただきます。
あなたへ
ひぐらしがうるさい位鳴いています。
きょうは8月21日 日曜日
お盆も過ぎて街は静かになりました。
あなたが突然いなくなって5ヶ月と10日。
もう5ヶ月、まだ5ヶ月と、とても複雑です。…あの時から 私の心はコンクリート詰めになり、
山々が新緑に覆われても、桜が咲いても
何も感じる事が出来ず、
声を上げて泣くことすらも出来ずにおります。…突然いなくなったあなたに伝えたい事、
聞いて貰いたい事が山ほどあって、
心の整理もつかないけれど、手紙を書くことにしました。
お店のこと、心配していますか。
お店はたくさんの方々の応援をいただいて、
4月23日仮店舗をオープンしました。
…混乱の中で息子達はほんとによく頑張りました。…何も言えずに別れてしまったから、ありがとうと伝えたくて
切なくて悲しくて、どうしようもないけれど、
38年間いっしょにいてくれて、仲良くしてくれてほんとにありがとう
守ってくれて支えてくれてありがとう。
感謝しています。これからは、あなたが必死で守ってきたお店ののれんは、
私が息子達と守ります。大丈夫です。
あなたはきっと何処かで私達のこと
見守ってくれているのでしょう。季節の巡りは早く、間もなくすず風が吹いて秋がやってきます。
願わくは、寒くなる前に、雪の季節が来る前にお帰り下さい。
何としても帰ってきて下さい。
家族みんなで待っています。
私はいつものようにお店で待っています。
只々ひたすら、あなたのお帰り待っています。
豊和さんの帰りを待ち、悲しさや切なさと、見守ってくれているという思いが同居しながら、懸命に日々を歩んでおられる。そのようなことをこの手紙から感じました。
◆生かされて
その後、豊和さんは、一年三カ月たった6月5日、倒壊家屋の中から全身遺体で発見されたそうです。ご本人が判別できる状態での再会は奇跡だと言われたそうです。家族みんなで帰ってきてくれてありがとうと、ただただ泣いたそうです。
親しい人は、「旦那さん、手紙を読んで帰ってきたんだよ」とおっしゃり、悲しみと喜びの涙があふれたと言います。亡き夫が帰ってきてくれた。それはどんなに救われることだったか。むなしさに押しつぶされそうだった菅原さんの思いを、優しく包んでくれたと言います。
それからも、菅原さんは、多くの困難や悲しみも経験されたことでしょう。そして、震災から十年以上が経過しようとも、その当時の思い出や面影は、忘れるどころか色濃くなるばかりだと言います。
しかし、悲しみを抱きながらも、菅原さんは多くのご縁を喜ばれ、ご縁に生かされているという感謝の中、日々を歩んでおられることもこの本から感じました。
最後に、本の「あとがき」を読ませていただきます。
被災地は十一度目の春を迎えました。生きている私たちは、目の前のコロナ禍の現実に目も心も奪われがちですが、亡き人たちならどう生き抜くだろうと問いかけこの先の幸せを築いていきたい。
緑の真珠と呼ばれる大島には、深紅の椿がとてもはえて本当に美しい風景です。十年前、絶望の地だった町は新しくよみがえり、復興のその先を見据えて、新しい取り組みが始まったのです。私たちも心一つにして歩み出さねばなりません。
めぐりしご縁にみちびかれ
さらなる歩みの踏み出しに
生きる力を授かりてすべての皆様へ ありがとうございました
こういう文章で、この本はしめられています。
◆
いかがだったでしょうか。人生を生きているということ、共に生きているということ、そして生かされているということ。苦しみも悲しみも、喜びを幸せも。色々な思いを抱えながら、一人一人の人が精一杯今を生きています。そして、先に往かれた方やご縁にも導かれながら、私たちは今を歩んでいます。
本日は、宮城県気仙沼市にある酒屋「すがとよ」の菅原文子さんの著書「生かされて」の内容を一部ご紹介させていただきました。
―――
最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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