【仏教ひとくち法話】#014 続・私という存在とは何か?

この内容は、2021年2月9日「ヘルシーテンプル@オンライン」での法話の内容を文章にしたものです。

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「ヘルシーテンプル@オンライン」全国版ですね。本日は156名の方にご参加いただいております。私のほうからは、「幸せを育む法話の時間」ということで、ご参加の皆様と共に、ご法話を通して、人生や幸せについて考えさせていただいております。

さて前回は、「人はなぜ苦しむのか」というテーマについて、考えさせていただきました。

前回の結論としては、

・人はなぜ苦しむのかというと、自己への執着があるため、自分の思い通りにならない時に苦しみの感情が生まれる。

というお話をさせていただきました。

我々はどうしても自己への執着というものがあります。

では、自分が執着している自分とは何か、「私という存在とは何か?」について、今回は考えてみたいと思います。

私が勤める信行寺のほうでも、隔週でヘルシーテンプルをおこなっておりまして、そちらでもお話をしたのですが、それに付け加えてお話をさせていただきたいと思います。

◆動的平衡

「私という存在とは何か?」について話を進めていくにあたり、参考にさせていただきたいのが、生物学者の福岡伸一先生の動的平衡というお話です。

福岡伸一先生は、ドイツのシェーンハイマーという1941年に亡くなった学者の研究をご紹介されています。

その研究の要点を簡単に申し上げると、我々は食べ物を食べると、それが体内の至る所に取り込まれて、自分の身体の一部となり、そして同時にこれまで自分の身体の一部であったものが抜け出ていくということでした。

実際は、マウスでの実験ですけれども、その実験から我々の身体は日々、そして一瞬一瞬入れ替わっているということが言えるそうです。

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そして、一瞬一瞬中身が入れ替わりながらも、バランスを保ちながら、私という存在が成立しているということです。
一瞬一瞬、身体の中身が入れ替わりながらも、私という存在が成立しているのはなぜでしょうか。

それが、福岡伸一先生が言われる動的平衡(どうてきへいこう)というものです。動的平衡とは、それを構成する要素は、絶え間なく入れ替わっているにも関わらず、全体として一定のバランスが保たれている状態のことを言うそうです。

こうして、構成する要素が絶え間なく入れ替わりながらも、全体として一定のバランスが保たれているのは、生命現象もそうですし、実は環境もそうですし、自然もそうだと言えるそうですね。

色々なものがつながり、入れ替わりながら、動的な流れやよどみとして、自分という存在が成立している。それが生命現象ということだそうです。

◆諸行無常と諸法無我

少し仏教に寄せて考えてみますと、仏教には諸行無常という考え方があります。世の中の色々なものは移り変わっているという考え方です。諸行とはあらゆるものがという意味で、無常とは常でないということ。

あらゆるものは移り変わっているし、この私という存在もまた、一瞬一瞬移り変わっているんですよと読み取っていけるのが、仏教の諸行無常という考え方です。

そして、諸法無我という考え方もあります。これは、単独で変わらずに存在するものはなく、様々な要素が寄り集まって仮に私という存在として成り立っているという考え方です。諸法という言葉もあらゆるものがという意味で、無我とは、単独で変わらずに存在するもの(我)はないということです。

我々は、私という存在は確かにあるものと思い、存在しているものと思うのですが、実は要素が寄り集まって構成されていて、単独で存在しているわけではありません。

細胞レベルだけでなく、人と人との関係においても、互いの支え合いがないと、我々人は生きてはいけません。

今日のテーマである「私という存在とは何か?」ですが、仏教から考えてみれば、一瞬一瞬移り変わっている諸行無常の私であります。そして、我々が私と思っている存在とは、実は様々な要素が集まって仮に成り立っている諸法無我の私であります。

◆消滅変化をしながら引き継がれてきたいのち

先ほど、構成する要素が絶え間なく入れ替わりながらも、全体として一定のバランスが保たれているのは、生命現象もそうですし、 実は環境もそうですし、自然もそうだと申し上げました。

色々なものがつながり、入れ替わりながら、動的な流れやよどみとして、自分という存在が成立している。それが生命現象ということだそうです。

生命とは、太古の昔から、絶え間なく入れ替わり、消滅変化をして引き継がれてきた、その営みの一点であり、かつ全体であるかと言えるかと思います。

そして、常に動的な流れの中にあるものであり、様々な構成要素が寄り集まって成立しているものが生命といえるかと思います。

ただし、こうした全体の中のつながりとしての私であり、動的な流れの中にある私ということは、中々捉えようがなく、実感が難しいものでもあります。我々は、いつも中心においているのは自分ですし、自分を中心において世界を見ています。

全体のつながりの中にあり、入れ替わりながら、動的な流れの中で、要素が集まって仮に存在しているのが現実の私であろうかと思います。

しかし、日々の中では私とは確かにあるものだと思い、時には自分が良ければ良いという思いにもなりながら、自己に執着して生きている我々ものではないでしょうか。

この両者には矛盾があり、自分という存在があるものとして執着していく中に、思い通りになっていかない私というものに苦しみが生じてもいきます。

仏教から考えられることとして、諸行無常、諸法無我の私であるものを、確かにあるものとして自己に執着するところから苦しみが生まれているということが、一つ言えるかと思います。

そしてまた、ご縁ということからいえば、太古の昔から、絶え間なく入れ替わり、消滅変化をしながらも、今こうしていのちをいただいた、生かされているいのちであるということもいえます。

諸法無我という様々な要素が寄り集まって私が存在しているということは、多くのつながりの中で生きている私ということでもあります。

そして、諸行無常の移り変わりを繰り返してきたからこそ、今自分にいのちをいただいているということも言えるかと思います。

網の目のようないのちのつながり中で、様々なご縁により、今いただいているいのちが、私という存在でもあります。

移り変わりのいのちを生きながら、全体のつながりの中で大きないのちをいただいている、生かされていることにも気付いてほしいというのが、仏教の説くところでもあり、仏様の願いでもあるのではないかと思います。

しかしながら、自分の日々を振り返ってみれば、自分のことばかりを考え、自分中心に生きてしまっている私がいます。そのことを反省しながら、お話をさせていただきました。

本日は、幸せを育む法話の時間ということで、「私という存在とは何か?」について考えさせていただきました。

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最後までご覧いただきありがとうございます。

合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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