死を事実と受け止めていく中に、開けてくる視点

こんにちは、僧侶の神崎修生です。

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前回、死に対して我々が取ろうとする態度について、4つあるとお話致しました。

①「死を考えないこと」

②「少しでも健康でいようと気をつけること」

③「今を大切に生きること」

④「死を受容し、超克すること」

です。

そして、前回は特に、③「今を大切に生きること」についてお話しました。

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今回は、①「死を考えないこと」について、お話させていただきます。

死に対して、恐怖や不安、未練、葛藤といった類の感情がおこることは、人間として特別なことではありません。だからこそ、上記4つの形で、我々は死に対して、何らかの対処をしようとします。

①「死を考えないこと」というのも、一つの対処法ではあります。死について考えず、楽しいことを考えるといったことも、ある意味では対処法です。

自身の今生でのいのちが尽きていくことは、誰もが頭では理解しています。死亡率100%とか、死なない方法は、生まれないことだとか、冗談めいて言われることもありますが、事実でもあります。

しかし、事実を見るということは、ある意味つらいことでもあります。死という事実にとらわれて、生きていることを喜べなくなってしまうこともあるわけです。ですから、「死を考えないこと」も、一つの対処法ではあるわけです。

目次

  1. 諸行無常と一切皆苦
  2. 老病死の実感と仮の人生
  3. 後生の一大事

諸行無常と一切皆苦

しかし、「死を考えないこと」の欠点は、人は死なないわけではないということです。つまり、いつかは死について考えなければならない事実に出会うということです。

この世の真理(時代が変わっても普遍なもの)の一つに、全てのものごとは移り変わっていくというものがあります。仏教ではこれを、諸行無常といいますが、人間も歳月をかけ、段々と変化していくわけです。

ある程度元気な間は、一日単位での変化は感じにくいかもしれませんが、実際には変化しています。

変化が分かりやすい例でいうと、子どもやご年配の方の変化があります。子どもは日に日に成長し、昨日できなかったことが、今日できるようになるなど、一日単位ではっきりと変化が見て取れる時がありますね。

昨日までハイハイができなかったのに、今日できるようになったとか、初めて歩いた、初めてママと言えるようになったとか、明らかに一日の変化が分かることがあります。

ご年配の方は逆に、昨日できたことが今日できなくなることがあります。うまく歩けなかったり、手が震えてものがもちづらかったり、目が見えづらくなったり、動悸がするようになったり、実感として変化が分かるわけです。

私は毎日のように、ご年配の方にお会いしますが、70代、80代になると、一日ごとに身体が衰えていくのが分かるようになりますという実感を伺います。

また、歳を重ねると、心筋梗塞とか脳卒中などの病気で倒れるような可能性も高まります。さっきまで元気だった人が昏睡状態になったとか、亡くなってしまったということもあるわけです。

ご葬儀をさせていただくことも多いので、昨日まで元気だったのにとか、さっきまで話していたのにとか、ご遺族からそういったお話を伺うこともあります。

本来、こうした病気や疾患などは、年齢が若かろうがなる可能性がありますが、若くて元気な時は、明日がどうなるか分からないことは、頭では理解しても、実感としては持ちにくいかもしれません。

既に、生死をさまよう経験をされた方や、重い疾患などを抱えている方は、明日どうなるか分からないということが実感としてあるだろうと思います。

このように、我々の心身は、実際には諸行無常というように、日々変化しているわけですね。そして、若くいたいけれども歳を重ね、病になり、亡くなっていきます。

少しでも健康でいよう、若くいようとすることは、良いことではありますが、それにも限界はあり、やはり歳は重ねるし、病気にもなるし、亡くなっていくわけです。

その全てが、自分の思い通りにはなりません。思い通りにならない人生を生きている、そのことを、仏教では一切皆苦といいます。苦とは、苦しみという意味もありますが、思い通りにならないこと、それによって苦しみが生まれることを言います。

老病死の実感と仮の人生

事実を見ることはつらいことでもあると申し上げましたが、このように人生の現実を見ていくと悲しい気持ちになったり、なぜ生きているのだろうかと思ってしまうこともありますよね。

そこまで、はっきりと事実をみたくない、人に言われたくないという、人間心理もあるでしょう。私も僧侶ではなければ、諸行無常や一切皆苦を、自分事として考える機会はなかったかもしれません。

また、年間数十名をお見送りさせていただくご葬儀の機会がなければ、老病死を実感として感じることも少なかったでしょう。

僧侶でなければ、死について考えたくはなかったと思いますし、今が楽しければいいじゃないかと思い過ごしたり、漠然と日々を生きていたかもしれません。

しかし、僧侶や医者や介護などの人の生き死にに携わる仕事をしていなかったとしても、やはりどこかで老病死を考えさせられる事実には会い、自分事になっていたと思うわけです。

自身が歳を重ねることを通してか、病を通してか、身近の人の病や死を通してか、一緒に住んでいる犬や猫などの老病死を通してかもしれません。

色々な場面で、老病死、諸行無常、一切皆苦の事実を実感する場面はあるわけです。ある程度元気な間は、それを他人事として、通り過ごすことができます。しかし、段々とそれが自分事になってきます。

50代、60代くらいの方が、親がなくなり、自分の身体も段々思うように動かなくなってきて、亡くなっていくことが自分事に感じられるようになってきましたと話されることがあります。

親戚の葬儀に参列してもどこか他人事だったのが、自分の親の死を通して自分事になってくる。身体のあちこちが痛み、頭は回らず、集中力が続かなくなった。

そうした自分の現実から、自分事になってくる。人によって、色々なタイミングで、老病死が現実として目の前に姿を現し、自分事になっていくわけです。

そうした老病死の事実にぶち当たった時に、「これが現実だったじゃないか。老いて、病になり、亡くなっていく。いや、事故にあったり、急に病気に倒れたり、明日がどうか、一ヶ月後がどうか、分からない人生を歩んでいるんじゃなかったのか。そんなことを見ずに、自分は生きてきたのか」そう思わされることがあるわけです。

私は、僧侶として、年間数千名の方とお会いして、1,000名を超えるご遺族の思いを伺う機会があります。

僧侶として臨む様々な場面を、グリーフケア(喪失等の悲嘆の感情へのケア)の場と位置づけ、枕経や法事をはじめ、場合によっては通夜や葬儀の式中にも対話の時間を設け、無理のない範囲で、ご遺族や故人の思いを、お一人お一人伺うようにしています。

僧侶になったばかりの経験が浅かった時には、形式的な葬儀や法事しかできなかったと今になって思うのですが(勿論その時も精一杯お勤めさせていただいていましたが)、今は故人やご遺族の思いをなるべくくみ取ろうとし、故人、ご遺族中心の場となるよう取り組んでいます。

そうしたことで、故人やご遺族の思いが言葉として、涙として、姿として、そこに現れてくるような場面が増えてきました。

皆が涙し、悲嘆や後悔の感情を吐露し、本音を語り合い、心でつながっていくような光景が目に見えて増えてきたのです。そして、それに従って、僧侶の私自身も、葬儀や法事から、学ばせていただくことがこれまでに比べ圧倒的に多くなっていきました。

人が歳を重ね亡くなっていく過程や、そこにおこる家族の感情、別れの悲嘆、後悔、安心など、様々な感情が入り組み、人は生きているのだと実感するようになりました。

そして、亡くなっていく人生を生きている存在であり、今を楽しく生きればいいというだけでは片付けようのない、悲しみや後悔、苦しみ、妬み、葛藤、喜び、感謝、感動など、色々な感情を抱え、揺らぎ、その感情を行きつ戻りつして生きている存在なのだと、そう実感するようになりました。

老病死の事実が自分事として感じられていく中に、見えてくる、開けてくる世界があることに気付かされたのでした。そして、これまでの自分は、何と表面的に生きてきたのだろうか、生の側面ばかりを見て生きてきたことかと、これまでの人生を仮の人生であったような実感を抱くようになりました。

後生の一大事

1400年代を生きた浄土真宗の僧侶に、蓮如上人という方がおられます。その方は、日本中の多くの方に手紙を書き送っているのですが、その中に、「後生の一大事」という言葉を多用されています。

この世でのいのちが尽きていく、そんな人生を歩んでいるんだ、そのいのち尽きていくことをどう受け止めていけばよいのか、それは人生においてとても大きなことですよ、まず考えるべきことなんですよと、繰り返しおっしゃられています。

我々は、ともすれば、今のことばかりを考えて生きているのかもしれません。老病死の事実を見ずに過ごしているのかもしれません。

まずは、諸行無常、全てのものは移り変わっていく、老い病になり亡くなっていく、それがその順番とも限らない、そんな一切皆苦の思い通りにならない人生を歩んでいるのだと、しっかりと受け止めていくことが重要だと、蓮如上人の言葉から思わされます。

今を中心にして、行き当たりばったりの人生を送るのではなく、老病死の事実をしっかりと受け止めて、死から生を考えていくことも重要なわけです。亡くなっていく事実を受け止め、本当に大切なものを大切にし、今を精一杯生きていく。前回は、そうした「今を大切に生きること」について記しました。

そしてさらには、4つ目の「死を受容し、超克すること」の大切さも思わされます。それは、また次回以降に、記していきたいと思います。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

合掌

浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

神崎修生

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