当たり前ではないことに本当に気付かされる時、人生は輝く

皆さん、こんにちは。僧侶の神崎修生です。

今回は、「当たり前ではないことに本当に気付かされる時、人生は輝く」というテーマでお話させていただきます。

より良く生きたいと願う方、仕事や人間関係などでのヒントを見出したい方、悩みや葛藤を抱える方など、様々な立場の大人の方々に読んでいただきたいお話です。

仏教は、2500年もの時代を経ても淘汰されずに伝わってきた、人類の智慧という側面があります経典には、自分のあり方、利他の精神、死生観、心の整え方など、人が生きていく上で、学びとなることが多く記してあります。ここでは、仏教の心を身近な例と分かりやすい言葉で紹介していきます。 

さて、今回は「死生観」編です。「当たり前ではないことに本当に気付かされる時、人生は輝く」というテーマで、綴ってまいります。

 

人生の有限性

我々は、日々を当たり前に生きている時があるかもしれません。ここでいう、日々を当たり前に生きるとは、言葉を代えると、明日も明後日も、1ヶ月後、半年後、1年後も、当たり前にやってくると疑わずに生きている状態のことです。

もう少し詳しく言うと、1年後がやってくるかどうかは分からないと、頭では理解していていても、普通にしていれば1年後が来るだろうと、そう感じながら日々を過ごしていられる状態のことです。

人生の終わりを意識せずに生きていられることは、良いことかもしれません。振り返ってみれば、小学生や中学生の頃に、人生の終わりを想像できなかったからこそ、キラキラとして甘酸っぱい青春の学生時代を思いっきり過ごせたのかもしれません。学生時代に戻りたい。そう思われる方も多いのではないでしょうか。

しかし、人は歳を重ねるうちに、色々と経験をする中で、人生が有限であることを知ります。それは、耐えがたい苦痛であり、恐怖です。

段々とできることができなくなったり、身体のあちこちが痛くなってきたり、病気や傷の治りが遅くなってきたり、身近な人との死別を経験したり、徐々に人生の終わりが自分事になってきます。人によっては、若くても、自分事として感じている方もおられます。

仏教の開祖であるブッダ(お釈迦様)も、老病死(老い、病になり、亡くなっていく)という事実に、深く悩まれ、そこから抜け出す方法を求め、出家をしたとも言われています。

 

死に対して取る態度

さて、人生の終わりは、遅かれ早かれ自分に起こる事象です。しかしとはいえ、あまり考えたくはないことです。できるだけ死を遠ざけて、死を意識せずに生きていたいと思う方も、多くおられることでしょう。

まず、死に対して、我々が取ろうとする態度は、大きく4つあります。

①死を考えないこと

②少しでも健康でいようと気をつけること

③今を大切に生きること

④死を受容し、超克すること

です。

 

今回は③の「今を大切に生きること」について考えてみたいと思います。

今を大切に生きようと思っている方も多いでしょう。しかし、今を大切に生きるがいいことだと思いながら、実践しようとすると案外難しいものです。

日々何となく時間が過ぎていってしまったり、大切なものが何なのか分からなかったり、欲求や立場を大切なものと勘違いしてしまったり、色々な難しさがあります。

 

今を大切に生きる

今を大切に生きるとは、どうしたらいいのでしょうか。一つは、人生の有限性を意識する機会を持つということがあります。そもそも、死を意識せずに、今を大切に生きることは可能でしょうか。今を大切に生きようという思いは、どのような動機から生まれているのでしょうか。

それは、人生は有限なのだという事実に気付かされていく時に、我々は、今を大切に生きなければいけないと深く思うのではないでしょうか。病になった時、身近な人を亡くした時などに、落胆や悲嘆と共に、人生の有限性と今の一瞬の尊さに気付かされていくことがあります。

これは、死を意識する経験をしなければならないとか、死を経験していることが偉いんだというようなことが言いたいのではありません。私は、僧侶として、年間数十名の方をお見送りさせていただき、年間1,000名のご遺族の思いを拝聴する機会があります。人生の有限性に早く気付き、人生の本当に大切なものは何かに気付き、大切にして生きていればよかったと、後悔や悲しみの涙にくれる方に多く出会ってきました。

その中で、私も多くのことを学ばせていただいているという実感、人間として育てていただいていることを実感することがあります。このコラムでは、そうした僧侶としての経験や学びも通して、記していきたいと思います。

 

本当に大切なものは何だったか

70代の男性の方で、一生を仕事に捧げてきたという方がおられました。高度経済成長期を大企業の中で、生き馬の目を抜くような環境で生きてきた方でした。長時間労働や会社のためという感覚は当たり前で、仕事の充実感もあり、妻子のために、一生懸命働いているという自負もあったようです。

しかし、定年になり、仕事を辞め、これから特に妻との時間を大切にしたいと思い、各地を旅行したいなと思っていた矢先のことです。奥さんが病に倒れ、突然亡くなりました。それから、その男性は、自分はいったい何のために一生懸命働いてきたのだろうか、そして、本当に妻子を大切にしていただろうかと、自分の人生に深く悩むようになります。

妻が亡くなり、娘も嫁いで、70代の男性一人暮らし。料理や洗濯など、誰もしてくれるわけもなく、何から何まで自分がしなければならない。これだけ多くのことを、何も言わず妻はしてくれていたのだと、そう気付いた時に、涙がこぼれてきて、妻の存在の有り難さが身にしみた、思わず手を合わせましたとおっしゃられていました。

妻が生きていた時は、全部が当たり前だと思っていた。本当は、どれだけ精神的な支えにもなってくれていたかにも気付かず、当たり前のように出されたご飯を口にし、美味しいやありがとうの一言も言わずに過ごしてきた。後悔してもしきれない。

妻のため、家族のためと、一生懸命働いてきたつもりだったが、本当は、自分のためばかり、自分の都合ばかり優先して生きてきたんじゃなかったか、家族のためには全くなっていなかったんじゃないか。生きている時に、もう少し一緒に時間を過ごしたり、優しい言葉がけができたんじゃないか。大粒の涙をこぼしながら、このようなことをおっしゃっていました。

 

人生を輝かせて生きる

我々は、往々にして、本当に大切なものや感謝することを忘れ、日常を当たり前として生きているのかもしれません。人生は有限であるのに、本当に大切なことを先延ばしにして、今ばかりを見つめて生きているのかもしれません。

有り難いという言葉は、有ることが難しい、つまり、当たり前ではないということです。当たり前ではないということに深く感じ入る時に、ありがとうという言葉が出てきます。

有限性を意識しない中で、今を大切に生きるとは、今の欲求や立場を大切にして生きているといったほうが正しいかもしれません。

つまり、今何をしたいか、何を求めているかといった欲求や、自分の置かれた立場や役割をもとに、今を大切に生きていこうとするものです。

これは、満足や充足、やりがいなどを感じるもので、それが悪いことかといわれると、今を精一杯生きていることを考えれば、悪いことだと断定できるものでもありません。

ただし、今が良ければ良いという近視眼的・刹那的な考えに陥ってしまったり、本当に大切なものに目を向けずに、時間が過ぎていってしまう落とし穴があります。

心の奥底では、本当に大切なものを大切にして生きていきたいと願いながら、顕在的な欲求や、立場にとらわれて生きて、その矛盾に、実は葛藤や空しさを感じている方も多いかもしれません。

そして、後々、なんでこんな人生を生きてきたのだろうかと後悔する方が多いのもまた事実です。

死をいつも意識しなければならないとか、死を意識するために病気になる必要があるとか、死を意識している人が偉いとか、決してそういうことを言いたいのではありません。

人は生まれ亡くなっていくという事象を、何千年もの間繰り返しています。その中に、「人生をより良く生きるための智慧」が蓄積されています。その一つが仏教とも言えます。

「人生は有限だから、いただいたいのちを大切にして生きてほしい」、「いのちを精一杯輝かせて生きてほしい」、「感謝を忘れることなく、傲ることなく生きてほしい」、「生きてきて良かった、生まれてきて良かったと思う人生を歩んでほしい」という親心のような願いをもった先人がおられる、そのことが少しでもお伝えできればと思い、今回は綴りました。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

合掌

浄土真宗本願寺派 教證山信行寺

副住職 神崎修生

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