この内容は、2021年2月17日におこなわれたオンライン朝会での法話のものです。
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「ヘルシーテンプル@オンライン」信行寺版ですね。本日もご参加いただきまして、ありがとうございます。
幸せを法話を育む法話の時間ということで、いつもご参加の皆様とともに、人生や幸せについて考えさせていただいております。
今日は、「いのちをいただきます」というテーマで、考えさせていただきます。後ほど、ご参加の皆様にもご感想をいただきつつ、対話できればと思っております。
さて、先週の「ヘルシーテンプル@オンライン」全国版のほうでも、少しお話をさせていただいたのですが、先日、車を運転していましたら、目の前にトラックがいて、その荷台に豚が乗っておりました。
ちょうど目の前にトラックがおりましたので、信号待ちの時間などですね、トラックの荷台から生きた豚さんの頭や耳、背中などが見えるのですね。10数匹ほどいたでしょうか。それを見ながら、この豚さんたちはどちらにいくのだろうかと、ふと思いました。
おそらく、最終的には我々がいただいているのだろうなと思いました。そして、そこに至るまでには、屠殺され、パック詰めにされ、スーパーに陳列され、食卓にのぼり、我々の口に入るといった過程があることかと思います。しかしいずれにしろ、最終的にはこの自分の口でいただいているのだなあとしみじみ感じました。
私の目の前では、今はまだ生きている豚さんたち。トラックの荷台をあちこちと動きながら、そのいのちが生きているという生々しさを感じました。そのいのちあふれんばかりに生きている豚さんのいのちを、自分はいただいているのだなあと改めて思いました。
豚肉として売られ、豚肉として調理し、豚肉として食べている。この手で、直接いのちに手をかけたわではないので、忘れてしまいがちですけれども、その以前には、豚肉ではなくいのちとして生きていたのだという、あまりに当たり前な事実を改めて思わされました。
そのいのちをいただいて、自分はこうして生きていること、そして実際には、自分もいのちに手をかけていることを、改めて思わされました。
我々は、何らかのいのちを摂取しないことには、生きてはいけません。自分や身の回りのいのちは大切にしながら、一方で生命維持や美味しさのため、いのちを選別している自分がいます。この大きな矛盾を抱え、ある時はその矛盾に目をつぶりながら、我々人間は生きています。
そして、矛盾を感じても、いのちをいただきながらでないと生きてはいけない我々がいます。いのちをいただいていると思いながらも、口に入った次の瞬間には、美味しいねと言っている自分がいます。そしてあろうことか、このお肉は美味しくないなと思ってしまう自分もいます。
もし、逆の立場だったとしたら、たまりませんね。自分が豚として生まれていたら。自分が食べられる存在として、この世に生まれたら。自分を食べるものたちを、悪魔だろうかと思ってしまうでしょうね。
我々は、今はたまたま人間として生まれましたが、豚や牛や鳥として生まれることもあり得なくはなかったはずです。一旦、人間として生まれたことを良かったとしながら、そして本当はいのちであるものを、豚肉として、牛肉として、鶏肉としていただいています。
いのちは大切という自分。そのいのちをいただかないと生きてはいけない自分。この大きな矛盾を抱えながら、我々は生きています。
こうして考えると、自分が罪を重ねていないなんて、あり得ないですね。
そこでせめて、我々ができることが、いのちをいただいていることを当たり前とせず、感謝していただくということではなかろうかと思います。手を合わせて、いただきますと言って、食事をいただくことではないかと思います。
いただきますとは、いのちをいただきますということを、私は教わりました。そのことを自分がしっかりと受け止めつつ、また次の世代に伝えていかなければならないと思うことです。
仏教の各宗派では、食事の際の言葉というものが、大体あるかと思います。それは、やはり尊いいのちをいただいているという感謝の念からつくられたものだろうと思います。
私が所属している浄土真宗本願寺派でも、食事のことばがございます。その食事のことばを紹介させていただきます。
【食前のことば】
多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
【食後のことば】
尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
おかげで、ごちそうさまでした。
こうした食事のことばというものがあります。宜しければ是非、食事の際には、食事のことばをおとなえされてみるのはいかがでしょうか。
大切ないのちといいながら、そのいのちをいただかずには生きていけない。そうした矛盾を抱えて、我々は今生きています。いや、生かされています。
そこでせめて、我々ができることは、いのちをいただいていることを当たり前とせず、感謝していただくということではなかろうかと思います。手を合わせて、いただきますと言って、食事をいただくことではないかと思います。
この食事のことばは、信行寺においても、ご法座の集まりであったり、子ども会などでですね、皆さんとご一緒にご飯を頂く時など、必ずおとなえするようにしています。そして、もちろん日々の食事の際にもおとなえしますし、浄土真宗のご家庭では、おとなえをされているところもあるかと思います。
この機に、宜しければ是非、食事の際には、食事のことばをおとなえされてみるのはいかがでしょうか。
幸せを育む法話の時間ということで、本日は、「いのちをいただきます」というテーマで、お話をさせていただきました。
この後、ご参加の皆様とご感想などを共有してまいりたいと思います。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
合掌
福岡県糟屋郡宇美町 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生
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